チェシャ猫
左右に別れた道。その前でアリスは途方にくれていた。
そこには看板が立っていて、「帽子屋 3月ウサギ あっち(右を指している) こっち(左を指している)」と書いてある。
どっち?アリスはしばらく考えこんで、「あっち」を行くことにした。2、3歩歩いてもう一度看板を見たら、「あっち」が左を指し、「こっち」が右を指している。
見間違えかなぁ?アリスは今度は左になった「あっち」に向かって歩いた。
そしてもう一度看板を見たら・・・。
また左右が入れ代わっていた。
「どっちなのよ!」
アリスが一人で怒っていると、
「どっちがイイの?」
という、なんだか色を含んだ声が、アリスのすぐ側の木の上から降ってきた。
アリスが驚いて見上げると、木の太い枝に、18歳くらいの青年が座っていた。
青年には三角の猫耳が紫色の髪から生えていた。丸い鼻にそばかす。大きな口でニヤニヤ笑いながら、流し目気味の黄色い眼でアリスを見ている。
髪の色と同じ紫色のシマシマのマントを着ていた。そのマントの下は・・・。
「きゃぁ!」
アリスは恥ずかしくて顔を覆った。
マントの下は何も着ていない。素っ裸だ。
「何?ああ、この格好嫌なの?」
猫の体の奥を舐め回すような声がアリスのすぐ近くからした。思わず振り返ると、猫の顔がすぐ目の前にあった。
「嫌ああ!早く服着て!」
「わかったよ!隠してるからさぁ。」
ほら、と猫が前をマントで隠した。
アリスはようやく落ち着き、猫に目を向けた。
「あなたは誰?」
アリスが怖ず怖ずと聞くと、猫がフフッと笑った。
「俺はチェシャ猫。この国一番の色っぽい猫。」
らしいよ、と最後にボソッと言った。このチェシャ猫、顔はあまり端正とは言えないが、確かに全身から色気がむんむん沸き上がっている。表情、声、仕草、それらすべてに色気がある。これではどんなにお堅い生娘でも、イチコロだろう。…噂では男もイチコロらしい。
「俺、公爵夫人に飼われているらしいけど、俺一度もそいつのこと、見たこと無いんだよね。あんた知ってる?」
「あ゛…あん。」なんて声を上げながら伸びをする。アリスは自分の背中がゾワッと波打つのを感じた。
「あたしは知らないわ。」アリスはチェシャ猫に言った。「飼い主を知らないなら、あなた、飼われていないんじゃないかしら?」
「あ、そうか。」
チェシャ猫が何がおかしいのか、ケラケラ笑った。
「で、君はどっちにイキたいの?アリス?」
アリスはびっくりした。
「どうしてあたしの名前を知っているの?」
「わかるさ。俺は物知りだからな。知らないことは無いんだ。」
チェシャ猫が赤い舌で指を舐めている。アリスはなんだかこっちが恥ずかしくなってきて、目を背けた。
「あっちがイイの?それともコッチ?」
チェシャ猫の示しているものがなんだかわからない。
「あたしあっちがいいの。」
アリスが「あっち」の道を指差して言った。
「どうして?」
チェシャ猫が目をギョロリと回した。アリスは早くチェシャ猫と離れたかったので簡単に説明した。
「あたし帽子屋さんのところに行きたいの。」
「ふ~ん。」
チェシャ猫が面白そうに言った。
「どっちの道も途中で交わるからどっち行っても同じさ。」
「本当?」
ありがとう、とアリスが嬉しげに駆け出そうとした。
「まあ帽子屋のところはその道じゃあないんだけどな。」
それを聞いて、アリスはムスッとして戻ってきた。
「この道が帽子屋への道さ。」
今までそこに道はなかったのに、チェシャ猫が「イカレ帽子屋 3月ウサギ」と書かれた看板の下を指さすと、三本目の道が出て来た。
「そういえばあんた知ってる?」
アリスが驚いて目を白黒させていると、チェシャ猫が急に話した。アリスは何が?という顔で振り返る。チェシャ猫がニッと笑う。
「この国がどんな国か。」
アリスは早くチェシャ猫から離れたかったが、好奇心が上回ってしまった。
「知らないわ。どんな国なの?」
アリスがチェシャ猫の元へ寄った。
「えー、何、知らないで来たの?
ここは子供は見てはいけない世界なんだよ。てっきり知ってて来たんだと思ったよ!どんなスケベでおませな子供なんだろうと楽しみだった!」
チェシャ猫がケラケラ笑う。アリスは真っ赤になって怒った。
「なんでスケベなのよ!」
「だってさ、この国は汚い大人の世界なんだぜ。わがまま、うそ、色事、権力。夢見る子供にはこんな世界は堪えられないさ。」
チェシャ猫がマントをバッと広げた。(アリスが悲鳴を上げて顔を隠した)
「ようこそ!大人の混沌の世界、UnderLandへ!」
「どうして・・・」
アリスが呟く。チェシャ猫から目を背けたままだ。
「なんであたしは来ちゃったんだろう?そんな、子供が来ちゃいけない世界に。」
「あんたが望んだんだろう?」
チェシャ猫の声が耳元で聞こえた。
「大人になればわかるかもしれないことを知りたくて来たんだろう?少し背伸びしてみたかっただけだろう?」
確かにそうだ。あたしは知りたかった。姉さんのことも、そして、白ウサギさんのことも。
チェシャ猫の声が囁く。
「これ以上進めば、もっと辛く、嫌なものを見るかもしれない。知りたくなかったことまで知ってしまうかもよ。それでも、行くか?」
アリスが目を上げると、チェシャ猫の黄色い眼があった。さっきと違い、真剣な眼。
アリスはその眼を見ながら、しっかり頷いた。
「あたし、行くわ。自分で決めたの。どんなに辛くても、しっかり見るわ。」
チェシャ猫が柔らかく笑った。
「じゃあ、気をつけてな。」
チェシャ猫がアリスに何か黒い物体を渡した。手の平にすっぽり入る。石のように重たく、ヒンヤリとしている。
「襲い掛かられたらこれを相手の首に力一杯あてろ。じゃあな。」
そう言ってチェシャ猫はすっ・・・と消えた。
なんだろう、これ?とアリスは黒い物体を見ていたが、ポケットにしまった。
そして、アリスはまた道を歩き出した。