魂
「居た」と言うべきか、「あった」と言うべきか、アリスにはわからない。生き物なのか、物なのか。
部屋は真っ暗で、明かりが無い。だが、「それ」は青白い光を放っていた。
「それ」はガラスの筒で、中が空洞で、大人が一人すっぽり入ることが出来るような大きさだ。
中には、人が入っていた。いや、正しく言えば、「人の形をした何か」だ。
体が半透明な煙のようで、息をフッとかけたら、消えてしまいそうなはかない姿。男も女も、大人も子供もいる。何十、何百という数のガラスの筒が、暗い部屋を埋めつくしていた。
「何なの…?」
アリスは少し怯えながら聞いた。
「ここは何?この人たちは、どうしたの?」
「彼らは死者だ。」
チェシャ猫が珍しく暗い顔をした。
「この人たちは、皆女王に殺された者たち。女王は、殺した人間の魂をここに閉じ込めて、封印している。死んでも解き放たれないんだ。」
「どうしてそんなことを?」
アリスはぞっとした。
「それは俺にもわからない。」
チェシャ猫は部屋の更に奥へ進んで行った。
「これから君に会わせる人は、もう死んでしまった人だ。君は多分、聞いたことがあると思うよ。」
チェシャ猫が、一つのガラスの筒の前で止まった。
アリスはその人を見て息を飲んだ。
半透明な姿でもわかる。
ふわふわな柔らかな金髪。
アリスにそっくりな顔。
「メアリ・アンだよ。」
チェシャ猫が呟いて、煙のように消えた。
「待って…!」
アリスはチェシャ猫に居なくならないで欲しかった。こんな不気味なところで、何をしたらいいかわからない状態で置き去りにしないで!
だが、チェシャ猫はもう消えてしまった。
アリスは泣き出しそうになった。すると…。
「あら、あなた、私の妹にそっくりね。懐かしいわ。でも、あの子がここに来ることはできないはずよね…。」
消えそうな、優しい声が、アリスの後ろから聞こえた。アリスは恐る恐る振り向いた。
さっきまで眠っているようにうなだれていたメアリ・アンが、大きな青い目で、アリスをじっと見ていた。
メアリ・アンは20歳くらいの娘だったが、ぱっちりした青い瞳は七歳のアリスと同じくらいに純粋で、キラキラと輝いていた。
こんな薄暗い部屋で、しかも殺されたあとずっと閉じ込められていたのに、まるで生きているように思えた。
アリスは緊張したように、
「あなたが、メアリ・アンさん?」
と聞いた。
「どうして私の名前を知ってるの?」
メアリ・アンが不思議そうに聞いた。
「えっと、あたし白ウサギさんと知り合いで、あなたのことをよく聞いていたから…。」
「白ウサギさん?」
メアリ・アンがハッとしてアリスに聞いた。
「あの人は、大丈夫?元気なの?!」
「う…うん。元気よ。」
アリスはメアリ・アンの勢いに驚きながら答えた。
「…よかったぁ。」
メアリ・アンは安堵したように息を吐いた。
何故か、アリスの心の奥が、細い針で刺されたようにちくちく痛い。
「あなたは、外の世界から来たんでしょう?」
アリスは聞きたいことがあったが、なんだか、聞いたらいけないような気がして、
「どこから来たの?」
と別の質問をした。メアリ・アンは答えた。
「私、イギリスから来たの。家の周りには、原っぱがあって、夏が近づくと、たくさんの綺麗な雛菊が咲くのよ。」
あたしの家に似ているのね、とアリスは思った。
「私はその原っぱでねっころがっていたの。・・・家族と喧嘩しちゃって。家に居たくなかったんだ。そしたら、白ウサギさんが通り過ぎて行ってね。追いかけてたら、こんなところに来ちゃったの。」
アリスはドキッとした。自分と境遇が似ていた。何よりも、
この人は自分の姉じゃないかと確信したのだ。
アリスには、姉のエルザと妹のマリーが居るが、実はもう一人姉がいた。アリスは見たことが無かったが。
アリスが生まれるほんの少し前。
その姉さんは父様と喧嘩をして、家を飛び出した。
雛菊の花畑の側にある大きな気の側に、その姉が身につけていた髪留めが落ちていた。
行方不明になってしまったようだ。それから1度も家へ帰って来ることも、誰かが目撃することもなかった。
でも、まだわからない。
姉さんの名前はメアリ・アンじゃないし、確かではない。
「あの、どうして追いかけたの?白ウサギさんを?」
アリスは恐る恐る聞いた。
「…。」
メアリ・アンは黙り込んでしまった。答えたく無い訳じゃなく、考え込んでいるのだ。
「面白そうだと思ったから。」
「えっ?それだけ?」
アリスはポカンとした。
「それだけじゃないけどね。」
メアリ・アンがニッと笑った。
「なんでか、追いかけたくなったの。直感?本能?猟犬が良い獲物を見つけた時の感覚に近いかしら…。」
アリスは少しぎょっとしたが、「いや、ちょっと違うかな。」とメアリ・アンがぶつぶつ呟いたので、ほっとした。
「あなたにもわかるはずなんだけど。」
「え?」
「あなたも白ウサギさんを追いかけて来たんでしょう?」
アリスはドキッとした。その様子を見て、メアリ・アンが片方の眉をピクッと上げた。
「やっぱりね。わかっちゃうのよ。」
「えっと…。」
アリスは赤くなってもじもじした。メアリ・アンには知られたくなかったのだ。きっと、良い気分では無いだろうし、怒られそうだと思った。
ところが、メアリ・アンはニッコリ笑っただけだった。
「わかるわ。あの人、素敵だもの。」
「怒ってないの…?」
アリスが恐々と聞いた。
「どうして?むしろ、白ウサギさんはこんなに小さな女の子にもモテるほどに、良い男だって、改めて知ったわ。」
メアリ・アンがクスクスと笑った。
「あなたも白ウサギさんが好きなのね。なら、あの人をたくさん愛してあげて。きっと、突っぱねるかもしれないけど、とても寂しがり屋さんなのよ。可愛いでしょ?」
「…。」
アリスは返事ができなかった。もうすぐ殺されるかもしれないし、白ウサギはアリスを愛してくれないのだから。
アリスは思い切って質問してみた。
「どうして白ウサギさんを好きになったの?」
メアリ・アンは少し考えてから言った。
「なんか、可愛かったから。」
「可愛いって・・・。」
アリスは混乱した。白ウサギは確かにかわいらしい雰囲気を醸し出していたが、男の人に可愛いって言う人は初めて見た。
メアリ・アンはまだ続ける。
「優しくて、ウサギなのに、本当は恐くて堪らないくせに、女王に背いて私を匿ったり、可愛いのに、人を包み込むような抱擁力があって・・・。
ウサギって、ずっとか弱いだけの生き物だと思ってた。でも、
こんなにも温かい心の持ち主だとは知らなかったのよ。」
メアリ・アンは照れたような、寂しそうな笑みを浮かべた。
「白ウサギさんを好きになれて、よかった?」
アリスが聞くと、メアリ・アンは
「ええ。もちろんよ。」
と笑いながら大きく頷いた。
白ウサギを愛した代償が死だったメアリ・アン。
だが、彼女は全く後悔していなかった。むしろ、
彼を愛してよかった。
心の底からの笑顔で言った。
「あなたも、」
メアリ・アンがアリスをじっと見た。
「悔いのないように、人を精一杯愛してね。」
アリスは頷いた。
「あのね、メアリ・アンさん。」
アリスは少し悩んでから聞いた。
「メアリ・アンさんは、本当の名前なの?」
メアリ・アンは少し驚いた顔をしたが、観念したように苦笑した。
「ええ。メイドさんの名前を借りたのよ。本当は、グレット・リデルって言うの。」
アリスは驚きで髪が逆立ちそうになった。
「あなたの名前は・・・」
「あたしも外の世界から来たの。」
アリスが言った。え?とメアリ・アンが目を丸くする。
「イギリスからよ。あなたが家を出る前に、お母さんのお腹に居た赤ちゃんは、もう生まれて、今七歳よ。」
「そうなの?」
メアリ・アンの目がキラキラ輝いた。
「その子、元気?」
「とても元気よ。今年、また妹が生まれたわ。二人とも、姉さんにそっくりよ。」
アリスが微笑んだ。
「あなたにも、似ている。」
「二人の名前は?」
メアリ・アンは少しはしゃいで聞いた。
「七歳の子はアリス。赤ちゃんはマリー。」
「アリス…マリー…。」
メアリ・アンが懐かしむような、少し寂しそうな顔をして呟いた。
アリスはクルリと背を向けて、チェシャ猫の元へ行こうとした。
「あ、待って!あなたの名前は?」
メアリ・アンが慌てて言う。
アリスは振り返った。
「あたしの名前は、アリス・リデル。会えて本当に嬉しいわ、グレット姉さん。」
メアリ・アンは息を飲み、目を見開いた。体が小刻みに震えている。
沈黙が流れる。
メアリ・アンが掠れた声で言った。
「あ・・・アリス?」
煙のような手を伸ばし、アリスに触れようとしているようだ。
アリスも手を伸ばす。
がちゃ。
ずっと暗い部屋に居たので、いきなり眩しい光が差し込んで来た時、アリスは思わず目を瞬いた。
見ると、部屋のドアが開いていて、そこに誰かが一人、立っていた。
「だ・・・誰だ?!」
アリスはその人を見て息を飲んだ。
アリスと同じくらい驚いているハートの王だ。
アリスは咄嗟に走り出した。どこに逃げるか決めていなかったので、部屋のガラスの筒の間を通りながら奥に逃げる。とにかくここから逃げなければ、王が女王を呼んでしまうかもしれない。
「ちょっと、君!待ちなさい!」
王が慌てて叫ぶ声が聞こえる。
アリスはチェシャ猫を捜しながら、どんどん奥に進んで行った。




