逃げ道
アリスは生まれて初めて牢屋に入った。わずか七歳で。
アリスは貴重な体験!と無理矢理元気を出そうとしたが、土が剥き出した床、冷たい石壁、太い丈夫な鉄格子を見ると、やはりしょんぼりしてしまう。
兵士が、
「おとなしくしていろ。」
と言い残して立ち去った。
アリスはすることが無いので、ひんやりしたくらい牢屋の真ん中に、静かに座った。
あのハートの王が取り持ってくれたおかげですぐには殺されなかったけど、あたしはこれからどうなるんだろうか。
話し合いで決めると言っていたが、あの女王のことだ。あたしを殺すために、無理矢理こじつけるだろう。
何故そこまでして、あたしを殺したがるのだろう?あたしは知らず知らずのうちに悪いことをしたのだろうか?それとも、メアリ・アンが何かをやったのか?
どっちにしろ、アリスは何も悪いことはしていないはずだ。理由も無しに殺されてしまう。
白ウサギさんがなんとかすると言っていたけど、大丈夫かな?
どうしよう。
アリスの小さな体は、不安と、とてつもない恐怖で震えた。
「女王も女王でさ、腹立つよな。何も悪いことしていないのにさ。」
「本当よ。理不尽にもほどが…。」
牢屋の中にはアリス以外に居ないはず。今、とても自然に会話してしまったが、アリスは驚いて辺りを見回した。
誰も居ない。辺りはしんと静まっている。
不意に、天井から咳ばらいが聞こえた。
アリスはさっと天井を見上げた。
「やっと気付いた?」
チェシャ猫がニヤニヤしながら、天井に胡座をかいて座っていた。
「きゃああ!服着てよ!」
相変わらずマント以外身に纏っていないチェシャ猫に、アリスが悲鳴をあげて目を覆う。チェシャ猫は無視して天井からヒラリと下りた。
「どうしてここに?どこから入って来たの?!」
アリスはびっくりしながらヒソヒソ言った。
「ん~?秘密!」
チェシャ猫はクスクス笑いながら言った。そして、
「さてと、ここから逃げようか、アリス?」
と、アリスの手を取った。
「無理よ。だって鍵掛かってるし。それに、」
アリスはうなだれた。
「あたしが逃げたら、白ウサギさんのせいになるわ。」
「え、死にたいの?」
「違うわ!」
アリスが慌てて言うと、チェシャ猫は笑った。
「今逃げないと、本当に殺されるよ。大丈夫。白ウサギのことは心配無いし、俺が君を守るよ。」
何が大丈夫なんだろう?だが、アリスが答える間もなく、チェシャ猫がアリスを抱き上げ、さっと呪文を唱えた。
次の瞬間、二人はパッと消えた。
「3月ウサギはどうしてる?」
女王が意地の悪い笑みを浮かべながら、白ウサギに聞いた。白ウサギは、女王に散々殴られた頬を摩りながら睨み付けた。
「立ち直れないほどに、落ち込んでいます。いや、落ち込むなんて簡単なものじゃない。」
女王は可笑しそうに声を上げて笑った。
「この分じゃあ、あいつが自ら命を絶つのも時間の問題だねぇ。」
なんでもなさそうにさらりと言う。白ウサギが怒りに声を上げた。
「何故こんなことを?くだらない理由で帽子屋を処刑するなんて!おまけに小さな女の子まで殺そうとしている!以前の貴女は、」
白ウサギの耳が垂れた。
「こんなことをするような人ではなかったのに…何の為に外の人を迫害し、何の為に人から、」
白ウサギが女王を見上げた。
「私からも、大切な人を奪って行くのですか?」
「煩い!黙りな!」
女王が白ウサギの腹を蹴り上げた。白ウサギが咳込みながらうずくまる。
「外の人間がこの世界に入ると、いろいろ面倒なんだよ。この世界の魔法に異常が生まれたりとかな。だから処分するんだ。」
女王が白ウサギの頭をぐっと踏んだ。顔が床に押し付けられ、眼鏡にひびが入った。
「あと、ウサギって、寂しいと死ぬらしいね?」
女王はクスリと笑う。白ウサギは、その完璧な微笑みを浮かべる美しい顔を思い切り殴りたい衝動に駆られた。
「お前は私の玩具だよ。簡単には殺さないよ。楽しませておくれ。」
女王が優しく囁く。白ウサギの背筋がうっすらと寒くなっていった。
「女王陛下!」
いきなり一人の兵士が慌てて入って来た。そして、白ウサギが女王に踏まれているのを見て、ぎょっとした。
「なんだ!?騒がしい!」
女王がいらついたように怒鳴る。兵士は叫んだ。
「今日捕まえたアリスが、脱獄しました!」
「な…!」
女王の顔が引き攣った。
「牢屋には鍵が掛かったままなのですが、アリスの姿が無く、もぬけの殻でして…。」
「役立たずが!」
女王が手を兵士に向けると、兵士の首が、真っ赤な血を吹きながらボールのように飛んだ。白ウサギは呻いて目を背けた。
女王が白兎の首を掴んで無理矢理立たせた。
「お前か!お前が逃がしたのか!」
女王の細い指が白ウサギの首を絞めつける。白ウサギは息が詰まった。だが、普段は穏やかな顔つきに似合わない挑発的な笑みを浮かべる。女王への返事としては充分過ぎた。
女王が怒号を上げながら白ウサギを突き飛ばし、
「国中を掻き分けてでも、捜し出せ!」
と兵士たちに怒り狂って命令した。
白ウサギはアリスが逃げてくれたので、ホッとした。上手くいけば、指示通りにチェシャ猫から青虫へアリスが引き渡されるはず。
そのまま、無事に元の世界に戻ってくれ…!
「ねえ、どこに行くの?」
「まあ、ついて来なよ。」
チェシャ猫とアリスは、まだ城の中にいた。薄暗い狭い通路を歩いている。
アリスは見つかったらどうしようと、びくびくしていたが、チェシャ猫は全く緊張感が無い。まるで散歩でもしているように、鼻歌まじりにのんびり進んで行く。
「見つかっちゃうよ!」
アリスがひそひそ言うと、
「別に平気さ。ここは俺や女王、王しか知らないよ。」
余計にまずいような気がするアリスだった。
「どうして道を知っているの?」
アリスは怖ず怖ずと聞いたが、チェシャ猫はニヤッと笑うだけだ。
「こんな道知っているんだったら、どうして帽子屋さんを助けなかったの?!」
アリスが言うと、
「ん?帽子屋が捕まったこと、知ってたの?」
チェシャ猫がキョトンとした。
アリスはチェシャ猫に対する失望と怒りが湧いて来た。
「何で助けてあげなかったのよ!」
アリスは悲痛な声で言った。
「帽子屋さん…死んじゃったのよ…。」
「は?」
チェシャ猫はポカンとしている。
「何言ってるの?」
「だって…女王がもう処刑したって…。」
チェシャ猫が、アリスがとっておきのジョークを言ったかのように笑った。アリスがぎょっとするほど通路いっぱいに声が響く。
「何言ってるんだ!あいつ、帽子屋はまだ生きているぜ!」
「えっ?」
アリスは目を見開いた。
「だって牢屋に居たの、さっき見た。」
チェシャ猫がまた先に進む。
「いつ殺されるかわからない恐怖を与えて、精神的に追い詰めまくって殺すつもりだろ。しばらくは殺さないさ。案の定怯えて固まってたんでね、そーっと耳元で、後で助けてあげる、って言ったら変な声出しながら飛び上がったよ。」
アリスは帽子屋が死んでいないことにとてもホッとした。その様子を見て、チェシャ猫は微笑む。
「大丈夫。必ずあいつも助けるから。ただ、君の場合はすぐに助け出さなければだめだったからね。」
チェシャ猫が立ち止まった。
見ると、目の前に大きな真っ黒な扉ふがあった。暗く冷たい空気が、その扉から滲み出るような感じで、とても不気味だった。
「君に会わせなきゃならない人が、この中にいる。
アリス、中に入って、会ってくれるかい?」
チェシャ猫が鋭い黄色の目で、アリスを見つめた。
アリスが頷くと、チェシャ猫が扉を開けた。
とんでもないものがいた。




