衝突
「アリスさん?」
「白ウサギさん…。」
アリスは白ウサギを見上げていたが、急に大きな瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。止まらない。多分、これから先、白ウサギを思い出す度に泣くだろう。
「どうしたんですか?」
白ウサギが心配そうに顔を覗き込み、アリスの温かな涙を指でそっと拭う。優しく、優しく。
「あなたの…せいです。」
アリスは思わずそう言ってしまった。白ウサギが黙り込む。時間が止まってしまったようだ。
「許して下さい…。」
やがて白ウサギがひっそりと言った。アリスが見ると、白ウサギは悲しげに俯く。
「私は、あなたを子供としか見ていない。
あなたを、愛することはできません。」
アリスは自分の心臓が止まってしまったように思えた。
わかっているのだ。
白ウサギがアリスを愛せないことは。
白ウサギも辛いだろうけど、アリスのためにきちんと向き合って言ったことも。
でもやはり悲しかった。
アリスはこの恋を忘れないだろう。
どんなに辛くても、どんなに忘れたくても、ずっと心に刻まれたままだと思う。
「白ウサギくーん!!」
突然3月ウサギが、砂埃をあげながらものすごい速さで走って来た。白ウサギの側で止まり、息を切らしている。
「3月ウサギ!何があったんですか?」
白ウサギが驚いて聞く。
「あれ?アリスちゃんまだ帰ってなかったの?ってそうじゃなくて!」
3月ウサギが今にも泣き出しそうな顔をした。
「帽子屋君が、死刑にされちゃうんだ!」
「なんですって?!」
白ウサギの声が裏返った。
「さっき、帽子屋君の時間が急に元に戻ったと思ったら、いきなり女王が来て…時間を戻したのは女王だったんだけど、」
3月ウサギは喘ぎながら叫ぶように言う。
「時間を狂わすことがいかに重罪であるかわかっただろう、お前には死をもって償って貰うって言って…それで…。」
3月ウサギがぺたりと座り込んだ。
「もちろん僕は反対したよ。僕が代わりに死刑になるって。そしたら、帽子屋君が…。」
白ウサギが3月ウサギの肩を優しく抱く。
「僕のお腹に一発拳を入れて、僕、気絶しちゃって…。気づいたら、もう帽子屋君も女王たちも居なくなってた。帽子屋君は僕を死なせないために、そんなことしたんだ。彼は昔から…そういう人だった。迷惑ばかり掛けたのに、」
3月ウサギの眼から涙がボロッとこぼれ落ちた。
「僕は、また帽子屋君を助けることができなかった…。」
アリスはなんだか信じられない気持ちだった。
昨日、普通に話して、紅茶を飲んで、笑ってた人が、死ぬ?
白ウサギは震えた声で言った。
「まだ彼は死んでいないはず。まだ、何か出来るかもしれません。城へ行きましょう!」
「でも、もう数時間も経ったんだ。もう手遅れ…。」
「そんなこと言ってはなりません!」
白ウサギが鋭い声を上げた。
「諦めたら、すべて終わりです!」
急に後ろから笑い出しそうな声がした。
「諦めた方がいい。もう終わったんだから。」
その声がした途端、3月ウサギが驚いたように飛び上がり、白ウサギはバッとアリスを自分の後ろに隠した。
「ハートの…女王陛下…。」
3月ウサギが怒りに震えた声で呟いた。
その言葉を聞き、アリスは思わず白ウサギの後ろから覗き込んだ。
アリスは驚いた。皆を散々悲しませた人が、こんなに美しい人だったなんて。
真っ赤な華やかなドレスが良く似合う、スラリと背が高い女性。伸びやかな首には豪華なハートのネックレスを付けている。
キリッとした黒目。スッと通った鼻筋。ふっくらした色っぽい唇にはドレスと同じ赤い口紅を付けている。艶やかな黒髪を結い上げ、その上では立派な王冠が誇らしげに輝き、アリスたちを見下している。
「もう終わったとは、どういうことですか?」
白ウサギがじりじりとアリスと一緒に、近くの草むらに移動しているときに、3月ウサギが不自然に静かな声で言った。
ハートの女王の美しい顔が、意地悪くニヤリと歪んだ。
「お前の愛しい友人のことだ。」
「ま…まさか」
3月ウサギが眼を見開くと、女王がけたたましく笑った。
「処刑したよ!お前がおねんねしている間に、あいつの太い首をバサッとね!」
その言葉を聞いて、白ウサギが思わず動きを止めた。ショックで青ざめている。
「このやろおおおおぉぉぉ!!」
3月ウサギが怒りに満ちた声を上げ、女王に襲い掛かった。
その途端、周りにいた兵士が3月ウサギを取り押さえ、地面に押し付けた。
女王は3月ウサギを見下した。
「お前を殺しはしないよ。たった一人の親友を守れない自分の非力さを呪いながら生きな!」
3月ウサギは
「ちくしょう…ちくしょう!」
と歯を食いしばっていた。深い青の瞳からとめどなく涙が流れ落ちる。
「なんてこと言うのよ!」
アリスは、自分が今見つかったらまずいという状況を忘れて、女王に向かって叫んだ。
白ウサギが息を飲んだ。
「あなた、あなたにはわからないの?3月ウサギさんが、あなたに大切な人を奪われた人達が、どんな気持ちなのか!」
アリスはめちゃくちゃに怒って吠えていた。こんなにも人を見下す者は初めて見た。
「あなたなんか、あなたなんか!」
「アリスさん!」
白ウサギがアリスを隠そうとしたが、女王はアリスをしっかりと見てしまった。
女王は真っ青になっていた。アリスを幽霊か何かと思っているような目で見ていた。
「お前は…!!」
またメアリ・アンと勘違いされているようだ。アリスはうんざりした。
と、女王の顔が真っ赤になっていく。怒っているようだ。
「まだ生きていたか…この化け物!!」
女王が金切り声を上げ、空中に手をかざした。
すると、いきなり四方八方から無数のナイフ、剣、斧が現れ、アリス目掛けて襲って来るではないか!
アリスは悲鳴を上げた。
死ぬ…!
「伏せて下さい!」
白ウサギがアリスの前に立ち塞がり、バッと両手を空中に上げる。
すると、ナイフが溶け、剣がクニャリと曲がり、斧が吹っ飛んだ。
そのうちの一つの斧が女王の方へ飛び、頬を掠った。
アリスは呆然として白ウサギを見た。白ウサギさんて、こんなにすごい人だったんだ・・・。
だが、女王の身に纏っている魔力が強く、それに気圧されて、白ウサギは冷や汗をかいている。
女王が怒り狂った顔で白ウサギを見た。
「お前、勝てないくせに、私に逆らうつもり?」
地の底から響くような恐ろしい声だ。
だが、白ウサギはしっかりと相手を睨み返す。
「この子は元の世界へ帰らなければなりません!あなたに殺させるものか!」
「なら、お前も死ね!」
女王がまた手を上げる。白ウサギが身構えた。
と、ここで控えめな小さな声が上がった。
「あ、あのさ、女王や?」
声がした方を見ると、そこには中年の男が立っていた。アリスは今まで女王の存在が派手だったので、その男がいるのに気が付かなかった。王冠を被っているので、多分この人がハートの王様なのだろう。
王は女王と同じ赤い服とガウンを着ていた。厳つい体格に華やかな格好をしているのに、余り目立たないのは何故だろう?優しそうで気が弱そうな顔に、金髪。髭を三編みにして、赤いリボンでちょこんと止めてある。
「なんだ、こんな時に!」
女王が噛み付かんばかりに王に怒鳴る。王は少しビクビクしながら震える声で言った。
「良く考えてごらん。白ウサギは私たちに長年とても良く仕えてきてくれた者だし、何よりもその子はまだ子供じゃないか。会っていきなり死刑なんて、酷いだろう?」
「こいつは殺さなければならない!」
女王がキンキン声で叫ぶ。
「そうしなければ…。」
「殺さなくてもいい方法があるかもしれないじゃないか。」
王は怯えながらも女王をなだめるように言う。
「ね。ほかの人達の話を聞いて判断しよう?この子を処刑するかは後で考えようよ。」
女王はしばらく王を睨み付けていたが、小さく舌打ちをして、
「この者を牢屋へ入れておけ。」
と、アリスを連れて行くように命令した。
「白ウサギ。」
女王がガッと白ウサギの胸倉を掴んだ。
「後で来い。」
白ウサギは女王を睨んでいたが、わかりました、とだけ言った。そして、連れて行かれるアリスにすれ違いざまに囁いた。
「大丈夫。あなたを死なせはしない。必ず助けますから…。」
アリスは白ウサギの言葉を信じて頷いた。
白ウサギはうなだれている3月ウサギの元へ寄った。
そして、アリスは兵士に囲まれながら、冷たい地下牢へ向かった。




