プロローグ:妻の背中を追い
妻の死因は事故死だった。
事故とは急なもので、私が病院に駆けつけるころには、すでに息絶えた後であった。
病室内には、妻の両親が先に着いており、「辛いだろうが、受け止めなさい」と話した。
当時、私はあまりにもショックが大きかったことから、「きっとどっきりか何かだろう」「エイプリルフールには遅すぎる」と現実を受け止めきれずにいた。その時、私は泣くことはなかった。
妻がなくなってからは、私を現実へと連れ戻すがごとく、様々なやるべきことをこなしていた。
その間、独身時代から続けていた日記もしばらく滞り、49日が過ぎて、ようやくこうして再開することができた。
しかし、日記を再開している今でも、妻がいないという現実感はあまりない。
いつかひょっこりと帰ってくるのではないかと、今でも思うときがある。そんなわけはないのだが。
私と妻の間には、来年小学生にもなろうかという5歳の娘がいる。
保育園や幼稚園には通わせておらず、夫婦間で協力して育ててきた最愛の娘だ。
私自身は、あまり育児には関わらなかったが、そのぶん家事担当として、ほとんどの家事を私がこなして、妻には育児に専念してもらうという形をとっていた。というのも、私の職業がライターで、ある程度在宅でも仕事ができたのが関係している。
娘は、初めのうちは、妻が死んでいるということには気が付かず、まわりの大人たちが、なぜ泣いているのか理解できていない様子だった。
しかし、3日も経てば「お母さんが帰ってこない理由」に勘付き、事あるごとに「お母さんはどこにいるの」「お母さんにあいたい」と泣いては、私や両親たちが泣きつかれるまであやしていた。
葬儀などで忙しかった時期は、私の両親や妻の義両親が、娘の面倒を見てくれていたのだが、住んでいる場所が遠かったこともあり、私が落ち着いてきたら、娘のことなどを心配しつつお互い地元へと戻っていった。
幸いなことに、ご近所さんの春日部さんが協力を申し出てくれており、自分がどうしても家を出ないといけないときは、春日部さんに託児を頼むこととなった。
とはいっても、春日部さんは齢60を超えており、あまり無理はさせられないのも事実だ。
親友と呼べる親友もほとんどおらず、いても遠い所に住んでいることが大半である。
こうなっては、妻がなくなった瞬間から覚悟していたことだが、私自身の力だけで娘と向き合うしかないのである。
嫌なわけではない。ただ怖いのだ。
妻の遺産ともいえるわが子だが、私のような育児をしてこなかった男が、これから多感な時期に入ろうとする娘をうまく育てることが——向き合っていくことができるのであろうか。
妻は立派な指導者だった。実際、娘は非常に行儀がよく、周囲からも褒められるほどできのいい娘に育てられてきた。
それゆえに、これから先、事あるごとに妻と自分を比べてしまい、自分のできの悪さに失望してしまうかもしれないからだ。
しかし、どんなに弱音を吐いても、娘は娘である。誰にも渡したくないのは事実だ。
余計なプライドはすて、がむしゃらに全力に娘と向き合ってみようと思う。
きっとそのほうが妻も喜んでくれるに違いない。
そしていつか、妻のもとへと行っても、自身をもって「大きくなったぞ」と言えるような育児にしたいと思う。
8月24日、本日をもってこの日記は終了し、これからは娘と向き合った記録をここに記すこととする。