家族と空気
リビングで朝食とともに俺を迎えたのは詩織の父と母、そして姉さんという一家全員だった。
母がテーブルに皿を並べ、姉さんがそれを手伝い、父が新聞を広げつつそれを待つ様はありふれた、かつ洗練された家族像そのものである。
「ああ、おはよう詩織」
俺を見つけた母が声をかけてくる。片頬に手のひらを当てて小首を傾げる姿は流麗で、ひと目で慣れたものだとわかる。少しおっとりとした風貌でこちらに安心感を与えてくれるが、時折見せるこちらを窺うような目がどこか不思議さを感じさせる、そんな母親だった。
「今日から行くのね? 本当はもう少し休んだ方がいい気もするんだけど」
向けられた視線には不安の色。
正直に言うと、自分の体調は未だ万全ではなかった。当初は体の自由が効かなかったし、熱っぽさもあったことから単純に体調を崩していただけだと思っていたが、どうやらそれだけではなかったらしい。今も体に掛かる重圧のようなものは続いている。
そんな状態でなお、身だしなみを整え今日向かおうとしている先は――学校である。
聞くところによると、倒れた日は俺の高校の入学式だったらしい。それから4日経過したのである。当然、入学式は欠席。始業式も終え、授業も始まっているだろう。従って未だ万全とは言えぬ体調に無理を押してでも登校しなければ別の意味で死んでしまうのだ。そう社会的に。
学校の入学直後というのは大事な時期なのである。勝手の分からぬ環境に右往左往し、ひときわ警戒心を強める。学生は同じ状況にある者同士、集団で行動することによって安心感を得、その中で細分化した新たなコミュニティを形成し、その後の学校生活の立ち位置がある程度決まるのだ。
まだ日は浅いとはいえ、周りの人が初心者講習を終えて固定化されたグループ行動をしている中に、初心者マークを付けて単身乗り込むのである。気が重いどころの話ではない。
べつに俺の体ではないのだからと、その辺りを放棄することも考えられた。しかし、この体が元の持ち主に返った時にぼっちの生活が待っているという惨状に良心の呵責が耐えきれず、やるならできるだけ早いほうが良いと今の行動に至っている。
「心配だし、沙織も気に掛けてあげてね?」
わかってる、と姉さんが軽く請け負って頷く。どこでどう気に掛けるというのか、という疑問も彼女の姿を見ればすぐに納得できた。
紺を基調としたスカート、白いカッターシャツにはきっちりとネクタイを締められ、その上にはグレーのベスト。ネクタイをリボンにしたり、トップスの種類や色を変えたりなど多少のアレンジの違いはあるものの、俺と同じ制服を身にまとっていた。
つまりこの2人の目的地は同じ学校で、上級生である姉さんが新入生である俺に何かと気を回してくれるというのである。
学年が違うといえど、面識のある人が同じ学校に居てくれるというのは少なからず心強く感じられた。もしかしたら詩織の知り合いも同級生として居るのかもしれないが、生憎、俺にとっては初対面である。交友関係を確かめようと自分の部屋を探ったこともあったが、いまいち情報が掴めなかった。
一方的にこちらを知っている人から声を掛けられたらどうしようか、などと考えていると、ふいに硬質な物が手に触れる。すぐに何なのか思い当たり、スカートのポケットからそれを取り出す。
(そういえばスマホの中身とか確認してなかったなぁ)
他人の携帯の中身を物色する事に少し抵抗を感じながらも、日常生活をより円滑にするためだと自分を納得させ、端末を指紋認証で起動させた。
待ち受けにある猫の背景写真に少しほっこりしつつ、目当てのツールを見つけ、受話器のアイコンをタップする。
電話帳に登録されていた連絡先は3件。
(少な!)
“おかーさん”、“おねーちゃん”、――“クソ”。
(……クソ?)
謎の連絡先を見つけ、反射的に詳細を覗こうとして指が意図してない箇所に触れてしまう。画面が切り替わるも、どこを押してしまったのかすぐにはわからず、勝手を知らない携帯なのもあってか、取り消しをするのにまごついてしまっていた。
その瞬間である。どこか懐かしさを覚えるようなオルゴールのメロディがリビングに響き、全員の視線がその音源へと向かう。
視線の先――父親がゆっくりとポケットから携帯を取り出し、音の鳴る画面を確認すると、そこで硬直したように動きを止め、一拍置くとギギィと音を立てそうなぎこちない動きで首だけが俺の方を向く。
「――詩織が半年ぶりに電話を……!」
引き絞るような震える声で俺の名前を呼ぶ、その顔の両頬からは二筋の涙が線を引いていた。
(ご、ごめんなさいお父様! クソ扱いしてる娘でホントごめんなさい!! もっと電話します!)
思いもよらぬ父親の反応に、俺は心の中で必死に謝罪を続け、「間違いでした」などと通話を切ることもできず、目先2メートルほどの相手と電話越しに会話をするという奇妙な状態になってしまっていた。他2人からの生暖かい視線がいたたまれない。
父は何と言うか、静かな人だった。厳格、といった感じでもなく、寡黙ではあるが見守ってくれているという印象を受ける。
終始、嗚咽混じりで何を言っているかわからない父親に「うん、うん」とそれっぽく相槌をうち続けてしばらくの後、ようやく朝食にありつけるようになった。
この家に来て数日ではあるが、妙に居心地の良さを感じるし、普通に生活できてしまっている。それだけに、未だに受け入れられずにいる事もあった。それは自分の体のことだけでなく、この世界について。
ここがゲームの中の世界などと、全く認識できないのである。
吸い込んだ空気。重心を移動した先で鳴る床の音。触れたテーブル、木材の感触。湯気になって漂っているコーヒーの薫り。それらの情報が俺の人生経験で得た感覚と何ら差異を感じないのである。俺が元いた現実世界と何が違うというのか。ここにも空気があり、物があって、人が住み、会話が成立するのだ。
コーヒーカップを唇から離し、飲んだ液体の代わりに一つ溜息を吐く。明確に結論付けようにも、これも情報が足りない事だ。俺が知っているゲーム内の情報とこの世界の一致点で、今確認できているのは自分の名前とプロフィール、そしてこれから向かう高校の名前くらいである。
――「坂戸錦ヶ丘学園」。難関校と呼ばれるその学校に、慌てて向かうのは体裁のためだけではない。おそらく主たる情報収集の場でもあるのだ。――もし、そこに俺の予期した人物達が居たのなら。
決意を示すように俺は拳を小さく握る。しかし――
「また1年からやり直しかぁ……。それに友達関係も……あぁ」
先行きの不安に、込めた力は霧散し、がくりと落ちる肩を支えることはできなかった。
頬をつねって痛かったからといって現実と認められるかと言えばそうでもない。
次回からようやく学校生活の始まりです。