自分のこと、現状のこと
倒れてから4日が経っていた。
いつもと変わらぬような朝に、目覚めた意識は体に命令を送り、信号を受け取ったシナプスは間をおかず命令どおりに身をベッドから起こす。あれから体調は良くなったと言えるし、激しい運動でなければ体を動かす分にも問題ない状態になっていた。
(……問題がないわけじゃないんだけど)
目下一番の問題――俺の体が女になってしまったということだ。
朝特有の気だるさを感じながらも、身支度を整えるため、のそのそと動きつつ今日も答えの出ない疑問を頭のなかで巡らせる。なぜこんなことになってしまったのか。元に戻る方法はないのか。最も簡単かつ唯一の解決方法として思いついたのは、寝て、次の目覚めを待つことだった。
そしてかれこれ4日である。ふと視線を下に落とすと、起伏のある体が結果を雄弁に語っていた。
(……それなりにあるよな)
深い溜め息を一つ吐くと、クローゼットから衣服を抜き取りつつ、現状のおける他の問題についても思い耽る。どうやらこの体、俺が変な薬を飲んだり突然変異したものではなく、誰か別の人物のものらしいのだ。他人の体に自分の意識が乗り移るという体験に「もしかしたらテレビに出られるんじゃないか」などと一瞬高揚したりもしたが、それどころではないと思い至り、すぐにテンションは底辺へと落ち込んだ。
身につけていた寝間着を床に落とし、ハンガーを外した衣服を身に着けていく。……なるべく意識しないように思考を続けながら。
とにかく他人の体を借りているのだから返さないといけないだろう。借りたものは返す。当たり前のことだ。方法はともあれ、この体を自宅まで送り届けるのが初期対応としては相手方に安心感を与えられるのではないだろうか。などと考えていたら先程まで寝ていたこの家こそがこの娘の自宅だというのだから、借り身で4日も寝食をしてしまったとあっては我ながら盗っ人猛々しいと思わざるをえなかった。
スカートの留め具を確認し、清潔感のある白いブラウスの襟首から自分の髪を抜き放ったところで、小さなポーチを手に持って一旦部屋をあとにする。
その足で向かった洗面所の前ではばったりと姉さんに出会った。倒れた初日に姉と間違えた人物なのだが、のちに確認を取ると……姉さんだった。正確に表現するならば元居た高校生男子たる俺の姉ではなく、この家、この体の主の姉さんということである。
姉さんはこちらの顔色を確認すると、にこやかな笑顔を向け挨拶してくる。
「おはよう、詩織」
――詩織。
そう呼ばれた名前には覚えがあった。
この家で過ごし始めてから4日間、俺がそう呼ばれ続けているから、というだけではない。以前から、それもこの体になる前からの記憶である。時が経てば忘れてしまいそうな名だ。それでも記憶に残っていたのは何の因果か、この家で目が覚める直前に見知ったものだったからだろう。
説明書。複数人の登場キャラクターの名前が書かれたその薄冊子の中にその名前はあった。
姉から借りた乙女ゲームの主人公にして物語のヒロイン――「二条詩織」こそが今俺が預かっているこの体の主である。
名前だけならば同姓同名の別人とも考えられただろう、しかし鏡越しに見てしまったのだ。説明書に載っていたビジュアルと寸分違わぬ姿が目の前に映っていることを。
まさか自分がゲームの登場人物に乗り移るなんてことは想像だにできないだろう。それに気付いた時にはショックを受け、また昏倒してしまったのだから参ってしまった。
(……そういやプロフィールの欄に姉の存在も書かれてたっけな)
こちらへ笑顔を向ける姉さんを見てそんなことを思い出しつつ、その何の屈託もない顔に対して応えあぐね、曖昧な表情を浮かべてしまいながらも挨拶を返す。
ここの家族には俺が別人になっているとまだ伝えてはいなかった。
正直、寝れば治ると期待していたし、最悪、数日もすれば元に戻っているだろうと楽観視してしまっていたのだ。すぐに解決するものだと思い、なるべく大事にしないように最初は黙っていたのだが、3日も過ぎればこれはまずいと感じ、真実を伝えようと考え始めるも結局言葉が見つかることはなかった。
――「俺は現実世界から来た人で、体を預かっているこの娘はゲーム上の人物です」などと面と向かって言えたものだろうか。間違いなくその場は凍り付き、最悪、精神病院送りにされかねない。いざ元に戻った時、「詩織」の今後を考えたらそんな汚点を残して去る気もなかったのだ。
あとになって考え付いたことだが、自分を記憶喪失だと偽ったり、この世界の人物だと嘘を吐くという方法もあった。だがもはや数日過ぎたあとでは言い出し辛くなっており、完全に機を逸したあとだったので、結果的に「詩織」を演じ続けていくことになってしまったのだが、もしかしたら一番大変な道を選んでしまったのかもしれない。
結局言い出せなかった自分が悪いのだが、今日もこうして家にお世話になっている罪悪感を抱えながらもこの生活を続けている。
「今日は手伝わなくても良いの?」
「うん、だいじょうぶ……ありがと」
ある程度様になってきた女性の身支度に内心苦笑しつつ、体調不良の時に手伝ってくれていた姉さんに短く返事を返す。
「……じゃあ、先にリビング行ってるね」
若干眉尻を下げた姉さんはそう言って洗面所をあとにする。
何か言いたいことでもあったのだろうか。
(バレてる……? いやいや)
あれだけ妹のことを心配していたのだ、本当に何か気付いていたのならば問い詰めるくらいのことはしてくるだろう。しかし、楽観視ばかりしてはいられないことも知ったのだ。
(――俺は上手く君をやれているだろうか。早く戻らないと、こんな生活すぐにでも崩れ落ちてしまいそうだ……。もっと情報がほしい。君は、今一体どこに居る? 同じように体から引き離された? それともまだこの体の中に?)
――俺の意識が「詩織」を消し潰してはいないだろうか――
思い付く可能性に肌が粟立つ。そんな思いを追い払うように頭を振り、なるべく急ぐようにして身なりを整えると、俺は足早に朝食が用意されている階下へと向かった。
自分の名前が判明します。イタコもびっくりの憑依体験。
まだ自宅から出られず……。ヒーローは遅れて登場するものなんです、たぶん。
空白の4日間はもう少し話が進んだ後にでも。