プロローグ
時は正化30年、4月4日。昨今の地球温暖化の所為か、桜は開花時期を終えて既に散り始め、道を淡いピンク色で染める、そんな日だった。
川沿いで風が強く、冷たいのも相まってか4月にしてはまだ少し肌寒く、白昼にも関わらず柊木健は制服の上から着たコートに手を突っ込んだ。そしてゆるいパーマのかかった髪の毛をワシャワシャと掻き毟った。
その日は日本有数の進学校…とまではいかないが都内ではそこそこの進学実績を誇る「都立鮫島高校」、通称「サメ高」の入学式の帰りだった。サメ高はあの「元」日本一高い電波塔である東京タワーを眼前に据えるシティ派で、比較的自由な校風の高校である。畢竟受験生からの人気も高い。しかしながら健はそんなことには目もくれず「幼馴染のあのクソが行くから、あー、あと知り合いが結構行くから」という何とも不純な動機でその高校への入学を決めた。
しかし今現在彼の隣には誰もいなかった。これには理由がある。まず第一に彼の両親は息子を置いてそそくさと帰ってしまった。入学式が終わり「高校初日からいつも一緒にいるアイツと帰りたくないし一緒に帰ってくれよ」という旨のメールを送るも「帰ってからのお楽しみ」という会話のキャッチボールが全くできていない返答がご丁寧にもハートの絵文字付きで送られてきた。
畜生あのクソ親共本当に日本語使えるのか? と悪態をつきながら彼はしぶしぶ隣のクラスの幼馴染の下へ向かった。そこには早速可愛い女の子と連絡先を交換する生粋の色男の姿があった。もう明日から絶交だわクソが、と憤怒の表情を浮かべながら健は教室を出るその足で一人ぼっちの帰路についた。以上が彼が今ブルブルと震えながら孤独に歩く理由である。
「クソだな」
健は大きくため息を吐いた。
高校生活初っ端からこんなんでいいのか? いやいや、俺の人生はいつだってスロースタートだ。大丈夫きっとうまくいく今までもそうだった、うん。と自分で自分を慰めながら隅田川の沿いをトボトボと歩いていた。
彼の家はサメ高の最寄り駅である大江戸線赤羽橋駅から数えて五駅目の月島駅にあるタワーマンションの11階である。ベランダからは隅田川が一望でき、夏の夜にはあの隅田川花火大会がギリギリ見える。世間体的には中流家庭の住むちょっといい住まい、といったところだろうか。
ひたすらに歩き続け帰路も半ばといったところで、健は顎に手を当てて首を傾げた。なぜか今日はいつもに比べ足取りが重い。いつもならば駅を出て十分も歩けばマンションの入り口に着くというのに、今日に限ってはその倍ほど歩いている気がする。そんなに両親が先に帰ったことがショックだったか。違う。この年になってまで親にベッタリするほどお子様ではない。では幼馴染のアイツが女の子と早くもいい雰囲気になっていたことがそんなに気に食わなかったのか。いや違う。中学生の頃からアイツは女という女にモテていた(そのくせ告白を受けた誰とも付き合うことがなかったのが健は最高に気に入らなかった)。奴が根っからの色男なのはわかっている。
ではこの倦怠感は。この体全体を包むような嫌な感じの正体は一体全体なんだというのだ。
その理由は少ししてからわかった。先ほどから健の頭に鳴り響く「キーン」という耳鳴りにも似た音だ。そしてそれは彼が一歩また一歩と歩みを進めるほどに――つまり、家に近付くほどに、大きく、鋭い音に変わっていった。
「クソがっ」
思わず健は悪態を吐いた。自分の号室の前に立つ頃には、自分の頭の中で鳴り響くその鋭い音はジェット機のような音にまで変容していた。もはや立つことすら限界だった。早く自室のベッドに寝転がって休みたい気分だった。
鍵を差し込んで回し、縦長のドアノブを掴む。そのドアノブを引けば先に帰った両親がおそらく手の込んだ料理をこさえて迎えてくれる。自室のベッドが待っている。
……しかし引けなかった。今なお頭の中で鳴り響く爆音をよそに、健は何か嫌な予感がしていた。家に近付くごとに大きくなる耳鳴り音。先に帰った両親。本当に、本当にこのドアを開ければいつもの日常が待っているのか?
頬に冷や汗が伝う。奥歯と奥歯がかみ合ってギリギリと音を立てる。血走った眼が、自らの意志とは関係なくギョロギョロと動く。ドアノブを掴んだ腕は力の入れすぎでブルブルと震えた。
「っ!」
思いっきりドアを開けた。鍵を閉めることもなく空いた空間に飛び込んだ。支えを失った体は前のめりになって部屋に突入する。その瞬間、健の脳内で反響していた耳鳴り音は何事もなかったかのように消え失せた。
「父さん、母さん」
両ひざに手をつき、肩で息をしながら両親を呼んだ。返事はなかった。
「父さ――――」
再びその名を呼びながら顔を上げた。しかし、そこには見知った顔はいなかった。
代わりに――高身長で痩せぎすの、ビジネススーツを着たマネキン人形が立っていた。
「は……?」
思わず目を軽くこする。次の瞬間には痩せぎすのマネキン人形はいなくなっていた。
やはり何かの見間違えだったのか。安堵に胸をなでおろしながら賢は廊下を進んで奥のリビングへと進んだ。
これまでの動揺を悟られないように深呼吸してから、「ただいま」とけだるげに彼はリビングに続くドアを開けた。その瞬間、顔をしかめるほどの鉄臭い臭いが彼の鼻腔に飛び込んだ。同時に――彼の彼の両親だった二つの肉塊も視界に飛び込んだ。
床には不二家の高そうなケーキが無残にも転がっていた。壁には縦横無尽にばらまかれた鮮血。全て二人が吐血してぶちまけたもののようだ。窓に貼り付けられている「高校入学おめでとう」と書かれた大げさな垂れ紙は、途中から力尽きた父親の手によって破られていた。その表情は普段の厳格な表情からは想像できないほど歪んでいた。母親はキッチンで包丁を握りながら血の海に倒れていた。どうやらポテトサラダを作っていた途中だったようだ。辺りに散らばったプチトマトは、彼女の血の色でそうなったのか、それとも地のイ色なのかわからないほど赤々としていた。
どくどくと今もその体から流れる鮮血の海の中で、健はべちゃっと膝から崩れ落ちた。
「あっがっう、うわああああああああああああああああああああああああ!」
誰かの悲鳴が聞こえ、健はキョロキョロと辺りを見回した。それが賢自身のものであることに賢は暫く気づかなかった。
数分してから、その悲鳴を聞いた近隣住民が部屋のドアを開けて中の様子を伺いにきた。そして賢と似たような悲鳴を上げて「さ、殺人よ!」と喚きながら走り去っていった。
それからまた数分後、誰かが呼んだ警察が家に突入し、顔をしかめながら手早く血まみれの健に毛布をかけ、彼を外に連れ出した。
◆ ◆
時は正化30年、春。むせかえるような鉄の臭い。耳をつんざく悲鳴。目を覆いたくなるような光景。まだ生温かい体に鮮血。これからも平凡に続くかと思われた彼の人生は、最低で最悪で最凶で……絶望的な結末を迎えた。
ジョジョとハンターハンターが何よりも好きなのでそれらの影響を過度に受けた物語になると思います。
また、作中に登場する異形は全てSCPFoundや世界各地の都市伝説をモチーフにしています。