「06」調整官と悪魔の遊戯:インザケースオブハー
それは、とある夕暮れの頃だった。とある一人の少女が、日本に海外旅行へと、家族でやって来たのだった。
彼女の名前はエリザベス・ブラウン。英国生まれの父と、米国生まれの母との間にできた、二人にとっての、最初の一人娘だった。両親からは、エリーと愛称で呼ばれ、江戸時代の日本に憧れを持っていた両親は、その曲解によって、彼女を厳しく、しかし愛情を込めて優しく育てられた。
日本へと飛行機でやって来た彼女ら一行は、江戸があった東京へと来ていたのだが、何せこの人の量。大自然間近の環境で暮らしてきた彼女にとっては、初めての体験で、人の波に押されるがまま、迷子になってしまった。
彼女は、いつも父親に教えてもらっていた通り、まずは人混みから脱出し、安全なところへと移動することにした。しかし、どこへ行ってもその人の波は消えることはなく、日が暮れる頃には、東京を離脱し、見知らぬ駅の中に足を踏み入れていたのだった。
(ここ、どこだろう?)
彼女は、今自分のいる場所がわからないでいた。携帯端末に充電されていた電気はもう底をつき、既に連絡を取る手段は消えていた。
少女は駅を見回した。しかし、そこにあるのは、朽ちた線路に、蔓や苔が蔓延っている改札口のみ。もはや、廃墟とさえ思えるその容貌は、安心させるどころか、彼女を不安にさせていた。
ホームのベンチに座り込み、はぁ、とひとつため息をついた。まだ秋だというのに、空気は冷え込み、息は白く染まっている。手も少し悴んできた。
(こんなことなら、コートを持って来ておけば良かった)
後悔するも、もう遅い。彼女はそんな無念と共に、顔を上へ挙げた。雲ひとつない星空は、どこか彼女のどんよりとした気分を励ましている様に見えた。
不意に、カチリと時計の針が動く音が、エリザベスの耳を打った。針の折れたアナログの時計が、短針を一分毎に目盛りを進めていく。しばらく、彼女はこの時計の音と共に、夜空を見上げることにした。
ぱしゃり。
突然、彼女の耳に、まるで水溜まりを長靴で踏んだような音が響いた。寝耳に水。彼女は驚いて、そちらを見た。するとそこには、雨なんて降ってはいなかったのに、雨に濡れた雨合羽を着た一人の少女がいた。
「....」
恐怖で声が出なかった。エリザベスは、彼女の方向を向いて、ただ口をパクパクと開閉を続けていることしかできなかった。しかし、そしてようやく彼女は、声を発することができた。
「貴女は誰?」
もし日本人だったとしたら、さっきの英語はわかるのだろうか。混乱した頭で、彼女はそう思った。しかし、それは杞憂だった。雨合羽を着た少女が、口を開いた。
「私は第二七アリス。貴女をアスタロト様の命により、施設へと連行させていただきます」
流暢な英語で、雨合羽の少女は答えた。しかし、エリザベスの混乱は深まるばかりである。あらゆる秘密を知る、ソロモン第29柱目の存在、アスタロトの名前が出てきたことにも驚いたが何より、それが彼女を呼んでいるということに、最も驚き、同時に混乱したのだ。
なぜ、私が呼ばれているのか。もしかして、あの人混みに潰されて死んでしまったのか。だから、悪魔に呼ばれたのか。そう考えるとエリザベスは怖くなった。
そして、彼女は逃走を図った。
「逃がしませんよ」
瞬間、エリザベスは気を失った。
△▲▽▼
「──はっ!?」
(夢....)
彼女は布団から上半身を起こした状態で、眠りから覚醒した。
(昔の....私の記憶....)
不意に、夢を思い出して、彼女の目から涙がこぼれ落ちた。
(パパ、ママ。今はどうしているのかな....)
そんな切ない感情が、心の奥底から溢れだし、涙と変えて目からこぼれ落ちた。
彼女は涙を手で拭うと、その敷き布団から外に出て、それを三つに折り畳んで、簀の上に掛け布団や毛布と共にそこに置いた。
(結局、麒麟さんに夜這いは失敗か....)
彼女は欠伸を一つして、部屋についている洗面所へと向かう。顔を洗い、髪を整えて、外の第二研究室へと足を向けた。
部屋から出ると、目の前にエリスがいた。
「どうしたの、エリスちゃん?」
「第二研究室の場所が移動したことを伝えに来た」
彼女は、アリス然とした無表情、無感情な、抑揚のない声でそう答えた。
どうやら、まだ自分が、普段どんな感情を抱いて接していたのか、まだ思い出せないようだ。その事が、エリザベスにはどうも悲しく思えた。それは、人間の本能的な部分の感情なのだろう。
「研究室が移動?」
「そう。もう外の寒い小屋で暮らさなくても良くなったみたい」
エリスは嬉しそうにそう答える。
「そうなんだ」
「そういえば、麒麟さんはどうしたの?」
エリスは少し不快そうな顔をして、廊下の先を指差した。するとそこには、床にばったりと倒れている記角麒麟の姿があった。
「あの変態さんなら、スタンガンで眠らせましたよ。本当にしつこい人です、ドクターは」
驚くエリザベスをどこ吹く風と無視して、エリスはそう説明した。
△▲▽▼
彼が目を覚ますと、廊下の天井が見えた。
(ああ、俺はあのまま放置されていたのか)
彼はそんなセンチメンタルな気分になりながら、そっと上体を起こした。スタンガンの名残か、まだ全身が痺れて痛い。
「ん....まったく、酷いことになったよ、エリスちゃん」
彼は頭を抱えて、こちらに指を突き刺している少女にそう愚痴た。
「変態ドクターは死ねばいいんです」
刺のある言い方をする彼女に、彼は少し傷つきながらも、その場から立ち上がる。
(死ねばって、エリスちゃんもいつの間にそんな言葉を覚えたのやら)
ぱっぱっと、ジャージについた埃を手で払い落とし、欠伸をひとつする。
「それじゃ、俺は着替えてくるから、エリスちゃんはエリーの誘導を頼むよ」
彼はそう言って、その場を後にした。