「04」調整官の平日:スノーナイツホール
「──つまり、重力とは、空間の歪みによって生じる、言ってみれば空間の波だということがわかったんだ。これは、21世紀最大の、物理学の間違いだったんだよ。ここまで理解できた?」
週三日で行われる、アスタロトの分体による講義に、麒麟とエリザベスは出席していた。
「んー、先生。もっちょっと簡単にお願いします!」
教室で、右手を軽く持ち上げながら、彼女はそう言った。
「ふむ。そうだな、計算式で教えたのが不味かったか。それでは、こう考えてみては如何──」
ちゃんと授業を聞いている二人から見ても、彼女のその講義はレベルが高く、さらに、わからなければわかるように、適切な喩えなどを入れて説明してくれた。
彼女はまさに、いい教師だ。
ソロモンの悪魔としてのアスタロトの能力もあるのだろうが、それがあるからこそ、なのかもしれない。
「麒麟君。うたた寝を始めない。さっき言った喩えを、それでは今度は君に説明してもらおうか?」
「....すみませんでした」
「何も、謝る必要はないのだよ。ほら、説明してごらんなさい」
彼は、アスタロトの指定に、少しの不快感を覚えた。
しかし、彼はここに居続けるため、将来的なもののために、それに答える。
「えー、ですから。空間の波とは、比喩表現であって、喩えるならば、水の張った湯船の栓を抜いた際に生じる水流の様なもの....でしたっけ?」
「65点だ。正確には、その栓を抜いた際にできる穴が質量を意味し、質量によって引きずられた空間が歪むことによって、波が発生する。この波が重力であり、決して、簡単な言い方をすれば、質量が重力を生んでいるわけではないのだ。この場合、水というのは空間を表す。理解できたな?」
アスタロト先生の授業は続く。
「貴方達人間には、重力を重量として認識する様だが....。それがそもそもの勘違いに繋がったと、私は思ってる」
そこで、麒麟が挙手をした。
「先生は、あらゆる知識をお持ちではないのですか?」
「全く違う考え方が多数あるからね。これは、知というより考の分野だから、私の専門外なのだよ」
「理解しました」
と、そこで終了の合図が鳴った。
「それでは、今日の授業は終わり。速やかに自室へと戻るように。あと、エリザベスは速くエリスのところへ向かうこと」
彼女はそう言うと、姿を消した。
△▲▽▼
エリザベスが第二研究室に戻ってくると、エリスがエプロンを着けて、包丁に手を伸ばしていた。
「エリス!」
エリスの手が止まり、彼女の視線がエリザベスへと向く。
「エリー!いまね、エリーのためにごはんつくろうとしてたの!まってて、すぐにできるから!」
エリスはそう言うと、包丁を手に取ろうとした。
これは、彼女なりの恩返しなのだろう。いや、感情というものを無くしてしまったに近い状態の彼女に、そんな思考ができるだろうか。
できるだろう。
恩とは、感情ではないのだから、それに何か返してあげたいと思うのは、普通ではないだろうか。
普段から、借りたものは返すことをエリザベスその人から教えてもらっているのだ。
当然だっただろう。
やはり、まだ完璧ではなかったのか。
エリザベスは瞬時にそう思考した。同時に、彼女をその場から引き離す。
「危ないから、そんなことはしなくていいの。もうすこし大きくなったら、手伝ってもらうことにするわ」
「わかった」
エリスはそういうと、椅子の上から降りて、エプロンを外した。
(ありがとうございます、先生)
エリザベスは心の中で、アスタロトに礼をした。
△▲▽▼
その夜は珍しく雪が降っていた。
ここら辺りは、水を含んだ冷たい西風が、山脈にぶつかって雪を降らすため、乾燥していることが多い。
今日はずいぶんと、水を含んでいたようだ。
麒麟は机越しに見えるその風景を眺めながら、ひとつため息をついた。
「嗚呼、不快だ」
研究室ではなく、自分の部屋で、彼は今さっきまで復習をしていたが、それももう終わった。
昔、こんなことがあった。
その日は珍しく雪降りの日で、更には何年かぶりの豪雪。雪はある程度地面に積もっていた頃だ。
彼は当時二十歳で、社会人としてのあり方に、さんざん悩んでいた。
ついた会社では、苛めに会い、そのことごとくを真っ向から潰しては会社を追い出され、そろそろ貯金も無くなって、家賃すら、その日生きることすら困難になった頃だ。
彼は、一人の男にであった。
いや、それが人であるのか本当に疑問であったが、そのときは人だと思った。
彼は、自分にこう言って聞かせた。
「寒いか。金もなくなり、住むところも、稼ぎももう失ったか」
男は微笑み、その白髪混じりの髪を掻くと、逆の、黒い革手袋をはめた手を差し出し、続けた。
「暖かいものをだそう。こちらで働け」
それからというもの、彼はそこで働いた。その功績を称えられ、二年という短期間で、支部長にまで上り詰めた。
本当に、不快だった。
彼は、あそこで彼を助けた。
嘘善だ。
それが、彼には気にくわなかった。
今までずっと虐げられてきただけに、罠と思ったからだ。
案の定、その予想は当たったが。
そのときも、同じ雪だった。
だから、彼は雪が嫌いで、不快なものだった。
「不快も不快。不愉快しかない」
ぶつぶつと彼はそうこぼした。
それほどに、雪はそれを思い起こさせるのだった。
すると、部屋をノックする音が聞こえた。
「麒麟さん、今いいですか?」
エリザベスだ。
彼は即座に顔を戻すと、入室を許可した。
「いいよ、入って」
扉を開けて入ってきたのは、寝間着に着替えたエリザベスだった。
「ん、先に風呂入ってたのか」
「はい、先にいただきました....って、あれ、麒麟さんもしかして勉強中でしたか?」
「いや、さっき終わったところ。それで、どうしてここへ?」
彼は、部屋を見回す彼女に、用件を尋ねた。
「あー、今日雪降ってるから、その、第二で寝泊まりするのは少しきついと思って」
(なんだ、そういうことか)
彼は窓のカーテンを閉じると、彼女を椅子に座らせた。
麒麟は、三つに畳まれた布団に腰かける。
「エリスは?」
そういえば、先程からエリスの姿が見えなかった。もし、第二が雪でつぶれてしまうことを懸念してこちらへ避難したのなら、当然のごとくエリスもいっしょだと思ったからだ。
「麒麟さんみたいな変態と、一緒に寝泊まりさせるなんてできませんよ!」
しかし、彼女はそれに対して早口でそう言った。
「変態とは失礼な!俺は、ただエリスを心配してだな」
「心配ご無用です。彼女は貴方のような変態に手の届かない所へ隠してありますから」
「まるで、『小さな部品がございますので、小さい子が呑み込まないよう、手の届かないところへ保管してください』って言ってるように聞こえるんだが?」
「事実ですから」
彼女はそう言うと、つんとそっぽを向いた。
「だから....その....代わりに私が、一緒に....」
「え、今何て言ったんだ?」
しかし、彼女の言葉は小さく、彼には届かなかった。
赤い顔をして、もじもじと言うその様子は、彼には全く興味の何もそそるものがない。
必然的に、彼はそのような態度をとった。
しかし、彼女はそんな彼の様子を見て、怒ったような表情をした。
「もういいです!麒麟さんも、さっさとシャワーを浴びてきたらどうですか!」
そして、彼はエリザベスに部屋を追い出されるのであった。
到底、彼には理解できなかっただろう。
彼女が、この大雪を言い訳にして、彼に夜這いをかけようとしていたことなど。
そして、彼女自身も、今のそれで計画が失敗してしまったということも。
アスタロトはそんな二人を見て、クククと喉をつまらせたように笑うのであった。
本当に、今夜は長くなりそうだ。