八
千之がバケツを手に別荘に戻ると、家の中はしんと静まり返っていた。
「兄ちゃーん、父さーん、サヤさーん」
庭口から呼びかけるが、何の反応もない。千之は仕方なく、庭にバケツを置いて、縁側によじ登る。
「千之」
奥の間の障子がかたんと開き、文彦が顔を覗かせた。
「父さんがどこにもいない」
中に入っていく兄の後を、千之は追う。奥の間には、誰もいない。中の間への襖を開ける文彦の視線の先にも、人の気配はない。
「ふうん……じゃあさあ、隠れんぼしようよ」
「千之、」
「父さんがいると、怒られるもん。兄ちゃんが鬼だよ」
と言うや否や、千之は縁側に文彦を追い出して、障子を閉める。「千之」とたしなめる兄の声が微かに聞こえたが、やがて諦めたのか、数を数える声がする。
奥の間を見渡す。文机が左手奥に置いてあり、その周りに何冊もの本が乱雑に散らばっている。ツンと、印刷インクの匂いがする。千之がこの部屋に入るのは初めてだった。
「もういいかい、」
兄の声に慌てて「まぁだだよっ」と千之は答える。正面奥には、床の間と押入れがある。押入れの戸をがらりと開く。下段を覗き込むと、多くの本がぎっしりと積み重ねられている。上段には、父の布団が収められていた。
千之は、押入れの上段によじ登ると、
「もういいよっ」
と叫んで押入れの戸を閉めた。目の前も定かでない暗がりの中で息を凝らしていると、障子を開ける音が聞こえる。微かな足音がそれに続く。その途端、急に視界が明るくなる。
「見つけた」
押入れの戸が勢いよく開かれ、文彦の笑顔が覗いた。
「早いよ、見つけるの」
「ほら、出てこいよ。次は千之が鬼」
ふくれっ面をしてみせるが、文彦は、お構いなしに部屋を出てしまう。仕方なく、千之は押入れから布団をかき分け、外に出る。
「早く数を数えろよ」
「……いーち、にぃ、……」
奥の間の柱に目隠しをして、千之は数え始める。千之の傍から、文彦の気配が消える。
「……きゅう、じゅう。もういいかい、」
しんと静まり返って、物音一つしない。
「もう、いいかい、」
柱から顔を上げて千之は叫んだ。けれど、答える声はない。
「兄ちゃん、」
奥の間を出る。縁側には、誰もいない。
中の間へ向かう。居間への襖を開ける。そのまま、台所へと進む。かまどの鍋からは美味しそうな匂いが漂ってくるが、がらんとしていて人の気配がない。
台所に隣り合う女中部屋を開ける。湯殿の戸を開け、湯船の中まで確認する。再び居間に戻り、縁側に続く障子をすべて開け放つ。
「……」
千之は、縁側にぽつんと佇む。陽の光は、変わりなく暖かに射し込む。
小鳥の鋭いさえずりが聞こえた。蒼天に目を向けると、二羽の小鳥が戯れながら視界を遮り、そのまま飛び去った。