六
千之が朝目覚めると、隣で寝ていたはずの兄の姿はすでになかった。
東向きの障子越しに、陽の光がさんさんと降り注ぐ。奥の間からは、父と、昨晩訪れた北薗という男が話しているらしい、静かな話し声が聞こえてくるが、話している内容までは聞き取れない。
「うーん」
大きく両腕を広げて伸びをすると、布団から出て、縁側に続く障子を開けた。
「おはよう」
縁側にいた文彦が千之に気づく。その手には、昨日、千之が物置で見つけた釣竿が握られていた。釣竿と言っても単なる細い竹の竿で、その先に文彦が糸を取り付けている。
そこへ手にお膳を持ったサヤが通りかかった。
「文彦さん、千之さん、おはようございます。先にお父様に朝食をお持ちしますので、もうしばらくお待ちくださいね」
サヤの後ろ姿を見送りながら、千之は兄の傍にしゃがみ込む。
「これで、昨日の池の主、釣れるかなあ」
「朝ご飯を食べたら、エサになるミミズを探そう。……それより、千之、早く寝巻を着替えてこいよ」
「うん」
千之は中の間に戻ると、布団の脇にそろえておいたシャツと半ズボンに着替える。そうこうしている間に、台所から二人を呼ぶサヤの声がした。
朝食を食べ終えると早速、文彦は釣竿を、千之は竿と一緒に物置で見つけたバケツを手に、昨日の池までやってきた。
周囲はしんと静まり返り、時折水面にさざ波が立つ。
右手に短い木の桟橋がかかっており、二人はそこから水面を覗き込んだ。水は途中で濁り、水底がどこかははっきりしなかったが、小さな魚が群れをなして泳いでいるのが見える。文彦が手際よく釣り針にエサをつけて、それを水の中に放り投げた。
「釣れるかな、」
千之は、釣り糸の行方を覗き込む。「危ないよ」という文彦の言葉で、少し首を引っ込めたが、すぐにまた身を乗り出す。小さな魚がエサをついばみに集まったと思えば、すぐに離れていく。
「兄ちゃん、釣れそう、」
「……まだ駄目だよ。しっかりエサに食いつくのを待つんだ」
「あっ、すぐにあっちに行っちゃうよ。エサが悪いのかな」
「……」
「こんな小さな魚じゃなくて、昨日のやつはもっと大きかったよ。早くあいつ来ないかな」
「……」
「ねえ、兄ちゃん、」
「うるさいな、黙ってろよ。魚が逃げるじゃないか」
文彦に睨まれて、千之はしゅんと肩を落として、「エサ探してくる」と桟橋を下りた。桟橋の脇には、低木の躑躅が茂みを作っていて、その下には酢漿草や春紫苑などの草花が群生している。ふいと目の前を紋白蝶が横切る。ふわりふわりと舞うと、菫の花にとまった。
千之は思わず手を伸ばすが、触れるか触れないかのところで飛び立った。手持ち無沙汰な右手は、そのまま菫の花を摘み取る。
兄の方を見ると、文彦は長期戦を覚悟してか、桟橋の上で胡坐をかいていた。
太陽はいつの間にか天高く上っている。千之が草原の上にごろりと寝転がると、上天から暖かな光が降り注ぐ。先ほど摘んだ菫の花をもてあそんでいると、ぽかぽかとした陽気に、だんだん眠気を誘われる。
ぴちゃん、と、千之は水音を聞いた気がした。
気がつくと千之は水の中にいた。
白い鱗に覆われた一匹の鯉になって、尾鰭を器用に動かして、水の中を泳いでいた。
頭上には、キラキラ光る水面を通して、青い空が見える。小鳥が水際の近くを飛翔している。若葉が風になびき、枝からはぐれた一枚が、水面に波紋を投げかける。水の輪の間から、桟橋に腰かけた兄の白い頤が、歪んで見える。
水の中には、小さな魚が群れを組んで優雅に泳いでいる。細かい鱗が、光を反射して瞬く。千之が近づくと、恐れ慄いて道を開ける。その群れを追いかけて中央を突っ切ると、二つに割れた魚群は、後方で再び一つに戻り、一定の距離を保ちながら遠巻きに千之の様子を窺っている。
下の方へと潜っていくと、やや水温が冷たくなった。水底には、落ち葉が幾重にも積み重なっている。その上を黒光りするゲンゴロウの背中が、のそりのそりとうごめく。背中を下唇で突っつくと、ゲンゴロウは毛の生えた大きな後ろ足を器用に動かし、思いもかけぬスピードで泳ぎ去る。
再び水面の方に上昇すると、暖かな陽の光を感じる。その心地よさに誘われて、浅瀬へ近づいていく。二本の棒が行く手をふさいでいる。構わずに、それを避けて直進しようとした途端、頭上から二本の手が千之を絡め捕る。飛沫が上がる。身体が掬い上げられる。
「助けて」と思った瞬間、千之の目が覚めた。
上半身を起こしてあたりを見まわすと、先ほどと同じ草原の上だった。そよ風に菫の花が揺れている。桟橋に、兄の姿はない。
ぴちゃん、と、水が跳ねる音がする。
持ってきたバケツの中に、一匹の鯉が泳いでいた。
千之は水の中に手を入れ、鯉を手で掴み上げた。円い眼が千之を見つめる。鯉は何かを訴えるかのように、パクパクと唇を動かしている。
鯉を掴む手にぎゅっと力を込める。手の中で、鯉は苦しげに身をよじる。その瞬間、手から鯉がするりと抜け出した。水飛沫が千之の膝を濡らす。
鯉は何事もなかったかのように、バケツの中でキラキラと、金色の鱗を輝かせた。




