十
気がつくと千之は、古い木造の駅舎の、庇の下に佇んでいた。無人の、森に囲まれた駅で、遠くで鳥が鳴く声がする。
周りを見回すが、誰もいない。
これまで何をしていたのか、なぜこんなところに独りでいるのか、千之には検討もつかない。体中に淋しさが込み上げてくる。
「坊や、独りでどうしたの、」
柔らかな声が語りかける。顔を上げると、鮮やかな縹色の着物を着た娘が、千之を覗き込んだ。いつ現れたのかはわからないが、千之はほっとして、頬に涙が溢れた。
「お父さんとお母さんはどうしたの、」
千之には何もわからない。ただただ首を振って泣きじゃくるだけだ。
「はぐれてしまったのね。私と一緒……お名前は、」
「……」
「私は、サヤっていうの」
「……ゆきむらちゆき」
その名を聞いた瞬間、娘の目が見開かれた。
「雪村……お父さんのお名前は、」
「……」
千之は父のことを思い浮かべて黙り込む。サヤと名乗る娘がじっと自分を見つめていることに耐え切れず、ぼそりと父の名を告げる。サヤの瞳がさらに大きく開かれる。「じゃあ、」と、娘は震える声で千之に詰め寄った。
「じゃあ、あなたにはお兄さんがいたでしょう、」
兄は千之が生まれる前に死んでしまった。千之に兄の記憶はない。けれど、家には兄の写真が山ほど残されていた。父はよく、自分のことを兄の名で呼んだ。
「お兄さんとどこかで会わなかった、」
目の前の少女は、必死の眼差しで千之を覗き込む。
「……」
千之が大きく首を横に振ると、落胆してサヤが息をついた。
「私はね、ずっとここであなたのお兄さんを待っているの」
その時、遠くから汽笛の音が響いた。段々とその音が近づいてくる。車輪とレールが擦れる鋭い金属音が鳴り響き、駅に汽車が停まった。
しかし、降り立つ影はない。
再び汽車が走り去るのを、サヤは見送る。一つため息をつくと、サヤは千之を振り返った。
「別荘に帰りましょう、お父様のところに連れていってあげるわ」
千之の小さな手をサヤが握る。掌から温かい体温が伝わる。サヤは千之の手を引き、森の中に続く道を歩き出した。
別荘は、父とサヤの二人きりで、偶に父の友人たちが気まぐれに訪れた。サヤは、父たちの身の回りの世話をしながら、森の中の駅舎で来ぬ人を待ち続けた。千之が別荘に来てからは、二人で駅へと向かうようになった。
その日も、同じように連れ立って駅に向かおうとしていた二人を、父の声が引き止めた。
「サヤ、僕の友人がもうすぐ三人ばかりやって来るそうだから、昼飯の準備でもしてやってくれ」
「……はい、かしこまりました」
サヤの返事を待たず、父は奥の間に引き返す。サヤは、嘆息すると、
「ごめんなさいね、千之さん。駅には午後にまいりましょう」と、慌ただしく台所へと向かってしまった。
千之はサヤの背中を見送る。駅へはサヤと何度も行った。道は独りでもわかる。
「サヤさん、ぼく独りでも行って来られるよ」
千之の声が、誰もいない部屋に、静かに響いた。
これにて「一の輪」は終わりです。