一
もたれかかった窓辺からは、規則正しい振動が伝わってくる。
文彦が目覚めると、車窓の景色は眠りに就く前とはうって変わって、鬱蒼と乱立した橅の林が続いていた。新緑が陽の光を受けて、キラキラと反射する。文彦は、我に返ってあたりを見まわすが、彼以外の乗客はこの車両の中には見当たらなかった。
長い夢を見ていた気がする。
文彦は、父がいる田舎の別荘を訪れるところだった。文筆業を生業としている文彦の父は、しばしばその別荘を彼の仕事場にしている。周囲を森に囲まれた昔ながらの平屋は、ときに街中の自宅よりもずっと落ち着くのだろう。父が自宅を留守にすることは、よくあることだった。
本来ならば、別荘には、家族そろって行く予定だった。しかし、文彦の母は身重の身体で、春から夏にかけての季節の変化に体調を崩していた。長時間の汽車旅が身体に障ることを懸念して、文彦は母を自宅に残し父の許へと向かっていた。
「まもなく、……駅に到着します。お降りの方は……」
独特の節を付けた乗務員のアナウンスが、下車する駅の名を告げた。文彦は慌てて、彼の唯一の荷物である革製のトランクを網棚から下し、乗降口へと急いだ。
駅は、不規則に並び立つ木立の中にひっそりと存在している。狭いプラットフォームに降り立った文彦は、静寂が包む無人の改札を抜けた。ペンキの剥げた、木造の旧く小さな駅舎だ。庇の下は、早くも夏の気配が漂う陽射しとは対照的な、濃い影が渦巻いている。文彦はその陽射しに目眩を感じて、目を固く閉じた。
「兄ちゃん」
微かな声が、彼を呼ぶ。駅舎から森の中へと続く一本道へ降り立つ階段に、しゃがみ込む小さな人影。その影が立ち上がると、濃紺の半ズボンについた土ぼこりを払う。
「ぼく、兄ちゃんを迎えに来たんだよ」
逆光のためか、文彦の瞼の裏に残る強い陽射しの残像のせいか、顔がよく見えない。文彦が戸惑い、声を出せずにいると、その少年は強引に文彦の腕をとった。
「兄ちゃん、どうしたの。ぼく、千之だよ。弟の千之だよ」
「千之……」
千之は、あどけない表情で肯いて、文彦の周りを見まわす。
「兄ちゃん、独り、」
千之のその言葉に、母親が急に来られなくなったことを思い出す。
「母さんは、身体が大変だから、今回は止すって……」
「ふうん」
文彦の言葉を聞いてか聞かずか、千之は、すでに文彦に背を向けて、森の奥へと続く道を歩き出す。「兄ちゃん、こっちだよ」と手招き、文彦の右手を塞ぐトランクなどお構いなしに先に行く。
「おい、待てよ」
「早く、早く。父さんが待ちくたびれているよ」
先をどんどん進んでいく千之の後を、文彦は急いで追いかけた。
別荘は、駅から歩いて十分くらいのところにある。身軽な弟に対して、長い汽車旅の末、重い革製のトランクを提げた文彦は、疲弊した身体を叱咤してようやく目的地に到着した。
「父さーん、サヤさーん。兄ちゃん着いたよー」
勝手知ったるさまで、玄関口で千之が叫ぶ。「千之さん、戻られたんですか、」と慌てたような声が聞こえ、次の間から縹色の銘仙を着た娘が現れた。
「サヤさん、兄ちゃんを連れて来たよ」
サヤと呼ばれた娘は、千之の後ろに佇む文彦の姿を見て、目を見開いた。
「まあ、文彦さん……よくいらっしゃいました。お身体におつらいところはございませんか」
サヤは慌てて文彦の傍に駆け寄り、文彦の両腕をその白い手で包んだ。サヤは、家族の手伝いに雇っている娘である。掴まれている腕から、ほのかな体温が伝わってくる。
それを見ていた千之は、二人の間に割り込むように、サヤの腕を引っ張る。
「サヤさん、ぼく、ちゃんと迎えに行ってきたんだよ」
「ええ。千之さん、お利口さんでしたね。……文彦さん、お疲れになったでしょう」
「サヤさん、お世話になります。……母は、体調が悪くて来られなくて」
「……そうなんですね。お独りで、ご無事で何よりです。さあ、もうすぐお昼の準備が整いますから、まずはお部屋にまいりましょう。お父様にもご挨拶をなさらないといけませんし。お荷物はこちらだけですか、」
「大丈夫です。自分で持てます」
文彦のトランクを手に取ろうとするサヤから、慌てて鞄を取り戻す。文彦がこの別荘に来たのは初めてではない。一番奥の竹林に面した部屋を父が使い、長い縁側に面した中の間を母子が使用する。いつもの部屋へと向かう文彦の、トランクを持っていない左手に、するりと千之の腕が絡む。
「おい、」
「兄ちゃんは、ぼくと遊ぶんだよ」
「千之さん、お兄さんはまだ着いたばかりなんですから、無理を言ってはいけません」
「だって、ずっと退屈していたんだもの。兄ちゃんが来れば一緒に遊べると思っていたのに」
唇を尖らせてぶつぶつ言う千之。「仕方ないわね」とサヤは、口元に笑みを浮かべながら嘆息した。
「千之さんも暑いところ、お迎えに行って疲れたでしょう。冷たいサイダーがあるから、こちらにいらっしゃいな」
「行く、サイダー大好き」
サヤはそっと文彦に目配せをすると、千之と連れ立って、台所へと向かう。
文彦は、自分の部屋に荷物を置くと、父の部屋の前まで来た。部屋の中はしんと静まり返っている。
「父さん、文彦です。ただいま到着しました」
「入っておいで」
襖を開けると、文机の前に座った、灰鼠色のネルの単衣に身を包んだ父が、機嫌よさげに文彦を招く。
「あの、父さん、母さんは……」
文彦の言葉を遮って、父の腕が文彦を包む。あどけない子どもにするように、父の手が文彦の頭や背中を撫でさする。
「よく来たね。待っていたよ」
もう子どもではないのに、と気恥ずかしさを感じる。弟に見られはしないかとひやひやしながら、文彦はその手を振りほどくことができない。
ふと逸らした視線の先、わずかに開いた障子の隙間から、庭に咲く鮮やかな菫の花が見え、鋭い鳴き声を残して飛び去る小鳥の羽ばたきが聞こえた。