21、悪夢
「……フィルさん?」
指先が、冷たい。
リーゼは彼の手を包んで、温める。
力の抜けた左手は、微かな反応すら返してくれない。
どうして?
「これは…」
シルトが脈を取っていた手を浮かせた。
倒れ込んだフィルの身体を支えたまま、カディに小さく首を振る。
「あんまり、良くないね」
「わかりました」
カディは淡々と頷いて、フィルを抱え上げた。
リーゼの手から滑り落ちた左手が、だらりと垂れる。
息が、止まるような気がした。
リーゼは、小さく呻く。
「ほら、しっかり。君の面倒まで見てらんないよ?」
諭すように言って、シルトがリーゼの背を軽く叩いた。
『…え、えッ!? だ、大丈夫ですか?』
状況の変化に、実況のラテが身を乗り出す。
さっさと歩き出したカディに代わって、シルトが手を挙げて、言った。
「大丈夫じゃなさそうだから、試合終了ってことで」
「え、えーっ! 決勝だよ!?」
「私たち、優勝しちゃうよ!?」
少し離れて事態を見守っていたポートリエ姉妹が、動揺したように追い縋る。
「だから、決勝とか言ってる場合じゃないんだって。わかんない?」
躊躇いもなく、シルトは試合を蹴った。
しんとしていた客席から、批難なのか、どっと声が上がる。
「付き合っていられませんね。行きますよ」
振り返りもせず、カディがフィルを抱えて舞台を降りた。
患者を待ち構えていた救護員が、慌ただしく狭い処置室を行き交う。
ベッドに寝かされたフィルはぐったりとしていて、リーゼが何度呼びかけても反応がない。
カディとシルト、そして合流したリンレットも、幾度となく彼の名を呼んだ。
重なる声が、焦りを帯びる。
「諦めないで、呼びかけて下さい」
救護員が言った。
諦めないで?
そんな、状況?
リーゼは手を伸ばして、フィルの頬に触れた。
迷子と戦ったあの時だって、一時間後には平気な顔で起きて来た。
大丈夫、きっとすぐ眼を覚ます。
けれど、そう、どうしても信じられない。
だって、目の前にいるのは、ただの人間だ。
この命を救って、夢をくれた、ただの。
「…っ、フィルさんっ! 嫌です、起きて下さい! フィルさんッ!」
「リーゼちゃん…、落ち着いて」
「なんで」
きっと、全部、悪い夢。
その証拠に、こんなに実感がない。
原因が。
このままだと。
医療院の方に。
断片になった言葉が、嫌にはっきりと鼓膜を揺らす。
険しい顔の救護員がどこかに通信を入れながら、「彼、持病は?」と問う。
「そんなの…、ないよ。フィルは、案内人だよ?」
「…眠い、とは言っていましたね。確か、倒れる前も」
リンレットの肩を支えて、カディも答えた。
ここでは、対処し切れないと判断したのだろう。
救護員が搬送の手配を始める。
「胸が痛いとか、頭が痛いとかは?」
「眠い、としか聞いてないな。試合前、少し顔色が悪かったけど。それより前はどうだったわけ?」
シルトが、リーゼを気遣ってか、静かに訊いた。
それより、前。
リーゼは思い出したように息を吸う。
斬られた、左手。
彼を傷付けたのは。
「…毒物の検査、出来ますか?」
自分でも信じられないほど、冷静な声。
彼を傷付けたのは、第七王子の暗殺を目論んだ人だ。
リーゼはもう一度、「毒物の検査です」と繰り返した。
「は、はい。出来ますが」
「お願いします。私、行かなきゃ」
どこへ、と背にかけられる声を無視して、リーゼは救護室を飛び出そうとして。
入って来ようとした誰かと、ぶつかる。
「あ」
尻餅をついたのは、クラウスだった。
彼は凪屋の姫の手を借りて、慌てて起き上がる。
「フィルさんの、具合は」
「殿下っ!」
リーゼは、ばっと彼の胸元を掴んだ。
驚いて目を見開く彼に、詰め寄る。
眠い、とフィルは言った。
そして目を覚まさない。
「良かった。今、殿下に会いに行こうと」
リーゼは震える声を、飲み込む。
これが、もし悪い夢でも。
あの人を失って、たまるか。
「お願いします。力を、貸して下さい」
止まりかけた思考が辿り着いた、あってはならない可能性。
でも、彼は。
作れないことはない、そう言っていたはずだ。
リーゼは深く頭を下げる。
砂獣研究の第一人者は、リーゼを見つめて、頷いた。




