18、恋路惑い
「ああ、すみませんね。今日は決勝だと言うのに。お時間は、大丈夫ですか?」
コロシアムの貴賓室は、控室の並びの最奥にあった。
入り口を固める護衛は張り詰めた空気を纏っていたが、ご本人は何も知らないとはいえ随分とのんびりしている。
今度は一緒について来たリーゼが、部屋の中を興味深そうに眺めた。
テーブルにかけられたクロスも、見慣れぬ柄の織物。
凪屋同様、この部屋も調度品が完全に異国のものだ。
「決勝だからでしょうか。今日は警護が随分慎重で、お呼び立てしたのはこちらなのに、遅くなってしまって申し訳ありませんでした」
「いえ、大丈夫です」
勧められて、フィルとリーゼは椅子に腰掛ける。
クラウスの傍に控えていたイリアが、「では」と軽く頭を下げた。
「私は外にいますので、ごゆっくり。と、言っても試合開始まであまり時間がありません。影響がないよう、ご注意を」
「え、外ですか?」
「ええ、出たところにいますので。何かありましたら、お声をおかけ下さい」
クラウスは慌てた様子で、「それは駄目です」と首を振った。
「…ですが」
イリアは困ったように、小首を傾げる。
彼女としては、クラウスから離れたくないのだろう。
だが、肝心の彼は事情を知らない。
もう一度、首を振る。
「そうですね。外の屋台で売っていた、あの不思議な色の飲み物。あれを、買って来て頂けますか? ああいったものは、なかなか口にする機会がなかったので、とても気になっていたんですよ。その、それまでには、話も終わらせておきますから」
「…殿下」
「すみません。姫、お願いします」
深く頭を垂れたクラウスに、イリアは溜息を吐いた。
「わかりました。そんなにかかりませんから、お話は早目にどうぞ」
すれ違いざま、イリアはフィルに目配せをする。
敢えて口にはせず、そのまま部屋を出て行った。
かちゃん、と鍵がかかる音がする。
クラウスはそれを見送って、安堵したように椅子に座った。
「その、王子殿下。ご内密のお話でしたら、私も」
言いかけたリーゼを、彼は「いえいえ」と遮った。
「寧ろ、いて下さった方が好都合と言いますか。女性の意見も聞きたかったので」
「はい?」
こほん、と咳払いをして、クラウスは身を乗り出す。
フィルとリーゼも、自然と耳を寄せる。
「その、実は、彼女のこと、本気に…、なってしまいまして」
「「……………」」
本気に。
先に反応したのは、リーゼだった。
「ちょっと、待って下さい。『本気になってしまった』って、姫とのこと、元々本気じゃなかったんですか?」
そこか。
クラウスはきょとんとして、それからさも当然と頷いた。
「私も彼女も、立場があります。お付き合いは、お付き合いとして、楽しんでいたつもりだったのですが」
本当に、良い仲だったのだろうか。
本来の事情を知っているフィルも、うっかり騙されそうなレベルだ。
誤魔化し方が、堂に入っている。
「面倒なものですよね。けれど、好きになった方に想いを告げて、いずれ添い遂げる。そういう当たり前のことが、出来ないこともあるんですよ」
「…………」
そう言われて、リーゼは頷かなかった。
年頃の女の子だ。
頷けなくて、いい。
「それで」
フィルは先を促す。
クラウスは、継承権を放棄していてもフィリランセスの第七王子。
そして凪屋の姫は、GDUを、クラウンを支える1stの一人。
障害しかない、恋路だ。
「…そもそも姫は、どう思われるかと。お付き合いをしている方が他にいるかもしれませんし、伝えるべきか」
しゅん、とクラウスは俯いた。
「フィルさんは、姫と付き合いも長そうですし。その、何でも構いません。何か、ご助言をと思いまして」
「…えっと、知り合いではありますけど、姫のプライベートは全く。結婚していないことは、確かですが。詳しいことは、凪屋のポートリエ姉妹とかにお聞きになった方が良いかと」
そうは言っても、あの姉妹には切り出し難い話かもしれない。
それにしても。
「……さっさと姫本人に、言ってしまった方が良いんじゃないですか?」
「言ってしまった方が…、ですか」
自信のない様子は、とても年上には見えない。
あんなに遠慮なく姫に絡んでいたのに。
フィルは苦笑する。
「悩んでいても、仕方ない。彼女は砂海案内人。しかもクラウンに忠誠を誓った、1stです。悩んでいる間に、手の届かないところに行ってしまったら、それこそどうしようもないでしょう」
クラウスは目を丸くして、「意外と、積極的なお考えで」と失礼なことを言う。
フィルは首を振った。
幸か不幸か、実体験ではない。
「案内人の間では、良くある話です。本気になってしまったんですよね? じゃあ、仕方ない。言うべきです」
「案内人…、ですもんね。明日も、隣にいられるとは限らない」
リーゼが、ぽつりと呟く。
目を閉じて、クラウスは息を吐いた。
「……そうですね。当たって砕けろ、というやつですよね」
「いえ、砕けろとは」
よし、と彼はテーブルを叩いた。
「そうと決まれば、時間もありません! ぜひ協力して下さい」
切り替えが早い。
クラウスはフィルの手を握って、「さあ、作戦会議です」と意気込んだ。
今から?
「殿下」
タイミング良く、部屋の外から声がかかる。
「ああ、はい」
クラウスが返事をして、リーゼが代わりに立ち上がった。
フィルも腰を上げようとして、手を引かれる。
クラウスが、「あ、すみません」と握っていた手を離した。
「リーゼ」
呼びかけに、彼女は不思議そうに振り返った。
けれど、その手元。
鍵は、すでに開けられていた。




