17、気配
砂海に出る時ほどではないが、随分と朝早くにリーゼが案内所まで来た。
決勝の朝。
眼が覚めてしまって、と申し訳なさそうなリーゼに、いつものように朝食を用意した。
ベッド脇の小さな窓から見える空は、連日の青空も休憩とばかりに薄らと雲がかかっている。
コーヒーにミルクと砂糖を入れて、リーゼはくるくるとスプーンを回している。
まだ、回す。
「何、リーゼ緊張してんの?」
「えっ?」
リーゼは顔を上げる。
フィルは頬杖をついたまま、「初めて砂海に出た時より、顔強張ってるし」と笑った。
彼女はむっと肩を怒らせたが、すぐにすとんとその肩を落とす。
「だって、あの人のこともありますし」
「あの人、ね」
ウェルトットで、リーゼを砂海に連れ出した人物。
野良の残党が口にした「もう一人の仲間」だ。
サナに頼んで情報を集めてもらったが、わかったのはエルランス地方出身であるということと、「レイ」と名乗っているということくらいだ。
それも、大会エントリー時に残された必要最低限の情報で、真実かはわからない。
「ま、少なくとも今回の大会じゃ、シルトに接触するようなことはなかったみたいだし、試合にしても、普通に参加してる。ポートリエ姉妹んとこに負けてからは、サナさんの記者仲間も見かけてないって話だし」
「そう…ですよね」
潰された野良の一団の残党として、シルトに意趣返し。
それも果たし切れたとは言えないような状態で、かつての仲間を捨てて、大会に参加。
気にならないと言えば、嘘になるけれど。
「あんま悩んでても、今日の試合に響くぞー」
気を紛らわせるように、フィルは軽くからかう。
リーゼは「そうなんですよね」と、困ったように笑った。
「まさかですよ。決勝メンバーは絶対、私を除いた四人だと思っていましたから。その、本当に良いんでしょうか?」
「イグの自警団との試合で、リンレットが結構無理してたからなー。流石に、連戦が響いてんだろ。心配しなくても、リーゼなら問題なく戦えるって」
「…頑張ります」
気合いを入れるように、リーゼは強く頷く。
戦いのレベルとしては、恐らく昨日が最も辛かったはずだ。
気は抜けないが、ここに来てカディとシルトもだいぶ連携が取れて来た。
連戦の疲れは予想以上にあるが、それは凪屋も同じはずだ。
勝てない戦いではない。
「もう、決勝なんですね。リンレットさんが言っていた通り…、あっという間でした」
「だなー。大会が終わると、本格的に夏か」
「これだけ活躍したんですから、仕事増えると良いですね」
「……う、ですね」
夏頃に必ず予約を入れてくれる常連はいるが、心当たりは今のところその一件のみ。
自分の食扶持もそうだが、リーゼは何かと入り用だろう。
仕事ねえな、残念。
じゃ、済まない。
「今度は、イグとか、行ってみたいです」
リーゼはカップを両手で包んで、ようやく落ち着いた表情を見せた。
何だかんだ、上手に緊張を解せる子だ。
「まだ『エルラーラ』しか歩いてねぇもんな。でも『リィンレツィア』ルート、結構キツイぞ」
「…やっぱり、女王宮が近いからですか?」
まあ、そんなとこ。
『こちら1032、イリア・リリエルです。朝からすみません、フィルくん』
突然入った通信に、答えようとした言葉を飲み込む。
首を傾げたリーゼに、イヤホンを指で叩いて通信を知らせた。
「はい」
彼女が個人的に通信を入れるとなると、話は大体想像がつく。
応答すると、イリアは端的に『伝えたいことが二つほどあって』と前置きをする。
『昨夜、GDUに不審人物が侵入しました』
「は?」
端的過ぎる。
重大な話が、耳を素通りしかけた。
今、何て言った? この人。
『人的被害は幸いにもありませんでしたが、来賓室と資料室、情報管理室に侵入の痕跡が残っていました。痕跡だけで、盗まれていたものはないそうです』
「ちょ、」
『GDU本部が人員を割いて捜査をしていますが、例の脅迫状を送りつけて来た人物の可能性もあります。公にはしない予定ですが、貴方には、伝えておこうと思いまして』
「待って下さい。何ですか、それ」
リーゼがコーヒーカップに口をつけたまま、驚いてフィルを見た。
ごめん、と手で謝る仕草をして、フィルは案内所に出た。
後ろ手に部屋の扉を閉めて、声を抑える。
「GDUに侵入者? んな警備甘くないでしょう、あそこは」
『そうですね。ですが、あったことは仕方ありません』
イリアは、まるで他人事のような冷静さで答える。
『もう一つですが』
事務連絡かよ。
ここで、フィルがとやかく言うような話ではないけれど。
『殿下が、今日の試合前に会って話したいことがあるそうです』
「……構いませんけど? こんな状況下で、随分余裕ですね」
『何でも、私には聞かれたくない男同士の話とか』
「いやいや、危険を冒してまでする話ですか。それ」
あの王子殿下も、なかなか変わり者だ。
観戦の中止とまでは言わないが、警護を固めて大人しくしていた方が良いのでは。
回線の向こうで、イリアが微かに苦しげな吐息を漏らした。
『……殿下には、GDUの件はお話ししていませんから』
「え」
『侵入者が、殿下を害そうとする人物と同一犯か、まだわかりません。殿下は…、大会も、ガーデニアご訪問も、とても楽しんでおられます。無闇にお気を煩わせることは、したくないんです』
声に慕わしさが滲んだのは、一瞬。
もしかして、この人は。
「……わかりました。男同士の話だか何だか知りませんが、伺いますよ。凪屋に行けば良いんですか?」
仕方がない。
フィルは渋々了承する。
『いえ、コロシアムの貴賓室に来て下さい。私には聞かれたくないそうですが、他は別段構わないと仰っていたので、お弟子さんも一緒で大丈夫ですよ』
「了解」
『…フィルくん、ごめんなさいね』
フィルはイヤホンを押さえていた手を、下ろした。
部屋に戻ると、コーヒーを飲み終えたリーゼが食器を洗っている。
「何について謝ってるのか、わかりませんが」
『………そうですね』
フィルは首元に手をやって、通信を切った。




