6、砂海
案内所のある九区から砂海の入口である門までは、徒歩で十五分ほどだ。
トラムを使えば二駅。
元工業区を経由して、十分。
大した差ではないから、フィルはタグなしの頃から門まで歩いている。
九区は『旧区』と称される、ガーデニアでも歴史の古い地区だ。
行政区や教育区では珍しくなった石造りの建物が、砂海から舞い込む砂を避けるため迷路のように入り組んで聳えている。
その旧区の荒い石畳の道は、砂海を目指すと緩やかに下り坂。
夜明け前の街並みは、僅かな街灯に照らされてしんとしている。
それも、元工業区の整備された広い道に出ると様子が変わる。
門を目指す案内人やその客が姿を見せ始め、砂海に面して築かれた防壁が見えてくる。
ガーデニアを守る要塞でもある門は、暗い灰色の石造り。
もっとも攻めてくるのは隣国ではなくて、風に乗って来る砂や旅人を追って来てしまった砂獣だ。
かつての悲劇のようなことは、ガーデニアの長い歴史の中でも数えるほどもない。
「混んで、いますね」
「ちょうど出発ラッシュの終わり頃だからな」
門は砂海への通行所であり、旅人は簡単な身体検査や荷物検査に加え、幾つかの書類に署名をしなくてはならない。
それも、GDUが認可した案内人が同行していれば全て免除され、文字通り門の中を素通り出来る仕組みだ。
石組みの重苦しいカウンターにぞろぞろと並んでいる旅人は、『野良』か単独の『タグなし』だろう。
門を管理するGDU職員の大声が、ドーム状の天井に反響している。
きょときょとと辺りを見回すリーゼに砂避けのローブの裾を掴ませて、フィルは人の間をすり抜けるように進む。
トンネル状の門内部を進んで行くと、ようやく砂海側の門扉に辿り着いた。
ガーデニア側とは違い、そちらの巨大な門は常に閉じられている。
見かけ倒しではないが、砂海へと旅立つ者がくぐるのは実際にはこの門ではなく、門の脇にある小さな扉だ。
扉の前には深緑の制服を着た職員が立っている。
名前は知らないが、一応顔見知りだ。
彼もフィルを認めると、微笑んで軽く手を上げた。
「おはようございます。お仕事ですか?」
「おはよ。や、仕事とは少し違くて、砂海見学」
そう答えて、フィルは背後のリーゼを見る。
彼はああ、という顔をして、リーゼに向き直った。
「新人さんですか! もしかしなくても、噂の砂海科一期生ですか?」
「は、はい」
「そうですか。やっぱり二日から本格的に修行が始まるところが多いようですね。さっき、デザートカンパニーのタグ付きさんたちが一期生たちを連れて砂海見学に行かれましたよ」
彼は持っていたファイルに、フィルの認可番号とリーゼの認可番号を書き込みながら続ける。
「いや、大手は新人の育成も堂に入った感じですけど、小さな案内所でじっくり経験を積むのも悪くないと思いますよ。……えっと、お帰りは本日中ですよね?」
「その予定」
「わかりました。今日は『出発日和』ですよ。お気をつけて、いってらっしゃいませ」
彼はフィルとリーゼの顔をしっかりと見てそう言うと、扉の前から退く。
扉を開けるのは、旅人の役割だ。
その旅が、旅人自身の意志と責任のもとに始まるものだという理念に基づいた習慣。
「さ、行こう」
「はい」
リーゼはフィルのローブを放すと、大きく一歩踏み出してフィルの隣に並んだ。
扉の向こうは、人の領域ではない。
この先は、『女王』の王国。
砂海。
砂と砂獣が支配する、死と隣り合わせの広大な海。
開けた扉の向こうから、砂の匂いが溢れた。
一歩踏み出すと、足が僅かに埋まる感覚。
後ろ手に扉を閉めると、目の前はもう砂の海だ。
リーゼが息を飲むのが判った。
一歩、二歩。
歩き出した彼女のブーツが、柔らかい砂に足跡を付け、それを一瞬の風が消して行く。
「……………」
夜明けだ。
朝焼けが砂に反射し、その砂を風が浚い波打っている。
空に薄く雲がかかっているから、その色は淡くまるで嘘のように穏やかな光景だ。
「綺麗だろ。とんでもないとこだけど、だからこそ、こういうふとした瞬間に息が止まるような景色を見せたりするんだよ」
「これが……、砂海」
飛沫のように、朝焼けの色がリーゼの髪に残る。
「砂海科で見た砂海の映像とは、全然違いますっ!」
「あはは、そーだろうな。砂海って一瞬で風景が変わるし、天気とか時間によっても随分印象が違うしな」
砂海で仕事をする何割かの人間は、こういう砂海の一面に魅かれて仕事を続けている。
フィルはそこまで砂海の光景に思い入れはないが、見れば心が動かないわけではない。
朝焼けの砂は、ゆっくり、ゆっくり色を失っていく。
遠くの砂丘に隠れていた太陽が雲の向こうに見え始めると、砂海は昼の姿へと移り変わる。
太陽が昇ると、多くの砂獣たちも活動を始める。
何時だから安心というのはないけれど、それでも昼に砂獣と遭遇することが多いのは確かだ。
例え、門の近くだとしても油断すれば足元からぱくり、ということがある。
フィルは静けさの残る砂海を見渡す。
過ぎて行った朝焼けに、リーゼは思い出したように息を吐いた。
「フィルさんが、砂海が好きなのかと訊いた理由がわかりました」
「だろ? で、どう? 好きになれそうか?」
リーゼは難しい顔をして、「まだわかりません」と首を振った。
やりとりの間に、門から出て来た数組が西の方角へと歩いていく。
恐らくは『ユレン・コート』ルートを使って、西ランス港へと向かうのだろう。
彼らの背を視線で見送り、リーゼは不思議そうに扉を振り返った。
「門の中にはあれほど沢山の人がいたのに、どうして出て来ないのですか?」
フィルは門の方を少し振り返って「ああ」と苦笑した。
「四時近くになって門で検問受けてる連中はほとんど出発出来ないって。準備不足の上、砂海を甘く見過ぎ。単独の『タグなし』とか『野良』と砂海を渡るなら門で時間食うのは当たり前だから、もっと早く来るのが普通なんだよ」
「そうなんですか」
「まー、俺だってこの時間だったら出発は見送るかな。ウェルトットに行くのだって丸一日かかるから、出発この時間じゃ、砂海で日没見ることになるし。それは、ちょっと嫌だな」
「陽が暮れると、いけないんですか?」
「いけないことはない。砂獣だって基本的には夜の方が大人しいし、好んで日没後に砂海を歩く奴もいるしな。でも大物にぶち当たるのは大抵夜だから、俺は夜の砂海は歩きたくねぇの」
さて、とフィルは伸びをした。
グローブを嵌め直して、眼前に広がる砂海を指差す。
「ここで砂海談義してても仕方ないだろ。ちょっとだけ、歩くか」
「はい!」
リーゼは眼を細めて頷いた。




