16、黒の戦端
『大丈夫だって。すぐ、助けに行くよ』
そう静かに言われて、情けないことに涙が出そうになった。
砂避けのローブの下で、ぐずぐず鼻を鳴らしていたコウが「ねーちゃん、平気?」と不安げな表情をする。
リーゼはぐっとイヤホンを押さえて、笑顔を作った。
タグがなくても、認可を受けた砂海案内人。
そして、あの人の、弟子だ。
「大丈夫。助けもすぐに来るし、いざとなったら、私、戦えますから」
落ち着いて、堂々と。
こういう時、一番怖いのはパニックを起こすことだ。
リーゼは指示通り、ポーチから閃光筒と催眠筒を取り出した。
ひんやりとした溶管を右手に握り込む。
睨んだ先、波のような砂間に、黒い影がゆらりと動く。
大きいけれど、あの迷子ほどではない。
さっきから砂獣はほとんど距離を変えずに、こちらの様子を見ている。
慎重過ぎるほどだ。
「ねーちゃんさ、強いの?」
修行だなんだと言っていた時の勢いはどこへ行ったのか。
コウはなるべく砂獣を見ないように、不自然に視線を落として訊く。
「これでも認可試験パスしてますから。コウくんよりは、強いです」
「見えねー……」
「人を見かけで判断するのは良くないと思いますけど」
軽口を叩きながら、常に砂獣に注意を払う。
あの人が戦うのを、何度も見てきた。
同じように、冷静に。
砂獣のなだらかな背を見つめて、リーゼは静かに息を吐く。
すっと膝を立て、踏み出しに備える。
ブーツの爪先が、何故か硬いものの上を滑った。
「?」
疑問のままに、左手でさっと足元を払う。
薄く砂を被っていたそれは、明らかに人工の。
「あ、これっ…!」
コウが声を上げ、リーゼは咄嗟にその口を塞いだ。
けれど甲高い声に反応して、砂獣の背に薄い幕のような鰭が開く。
来る。
嘘のような速さで、獣は砂の上を滑るようにこちらに向かって来る。
トカゲのようなものを想像していたのに、胴の先端がぱくりと割れた。
コウなら、丸呑み出来るほどの口だ。
「…フィルさん、応戦します!」
携帯通信端末に鋭く言い放って、リーゼは立ち上がる。
焦れるほど間合いを見極め、叡力筒を投げた。
しゃん
柔らかい破裂音。
それだけ聴いて、リーゼはコウの手を引いて走り出す。
熱さを感じそうなほどの光が背後で炸裂した。
砂に映った自分の影を踏み込むように、駆ける。
叡力筒は、確かに当たった。
けれど、効果は?
追って来ている?
振り返ろうとした瞬間、コウがバランスを崩して派手に転ぶ。
「コウくん!」
少年はぱっと起き上がったが、「足、ぐらぐらする」と半泣きのまま言った。
背負って逃げるのは、流石に無理だ。
おぉー…い、と背後からくぐもった声が追って来る。
リーゼはベルトから剣を抜いた。
人の声ではない。
これは、あれの咆哮だ。
「ねーちゃん、ごめん…」
「大丈夫。今の閃光筒で、フィルさんたちが来てくれるはずです。時間稼ぎくらい、訳ないですよ」
怪我をせず、砂獣の足止めさえ出来れば、あの人が何とかしてくれる。
自分でどうしようもないのは、少し悔しいけれど。
リーゼは砂避けのローブを脱いで、コウに被せた。
座り込んだコウを安心させるように笑って、それを迎え撃つ。
追って来た砂獣は、リーゼを見て僅かに距離を置いて、止まった。
闇夜を形にしたような、濡れたように黒い体。
楕円の胴に、意味があるのかわからないほど小さな前脚。
対して後脚はアンバランスなほど大きく、砂を掴むように爪の先が丸まっていた。
先程も見えた背鰭が、餌にありつけると踏んで歓喜するよう小刻みに震える。
口を開くと、胴の先端が横に裂けたように見えた。
コウが悲鳴を飲み込む音が、微かに聴こえる。
「それでは、お相手願いますね」
あれに喰い付かれたら、手足なんてあっさり持って行かれるだろう。
まして、首や腹をやられたら。
逃げたくなる気持ちを、不遜な言葉で殺す。
おぉおうぃ
それは答えるように、咽喉の奥から奇妙な声を出した。
ぐぅっと後脚が沈む。
リーゼはぱっと叡力筒を握った。
赤い叡力が、小さな溶管の中で揺れる。
銀のチェーンを指先にかけて、投げた。
今度は、どん、と重い爆発音。
口先。
惜しかった。
大したダメージではないが、リーゼに跳びかかろうとしていた砂獣は仰け反って蹈鞴を踏む。
その隙に、砂獣の脇に回り込んだ。
風で暴れる髪が鬱陶しい。
抜身の剣が、僅かな月明かりにちらと光った。
大丈夫。
砂獣がこちらを向く前に、その胴に剣を振り下ろした。
ゴムを斬るような手応えだ。
「コウくん、周り、気をつけて」
確認のための一振りとは言え、傷さえつかない。
砂獣を引きつけつつ、コウに注意を促す。
鳴きもしなかった砂獣が、リーゼに喰いかかる。
それを後方へ跳んで躱すと、砂獣はどっと砂に突っ込む。
焦っちゃだめ。
リーゼは呟く。
倒せなくていい。
今、優先すべきなのは自分とコウを守ることだ。
間合いを取ったまま、柄を握り込んだ手をそっと左手で押さえる。
砂獣はさっと体を起こし、また口を開いた。
「…結構、怖いんですね。砂獣って」
笑おうとした頬が、強張る。
本当に、喰う気なんだ。
おおぉう
また、啼く。
来る。
リーゼはすぐに剣を構えた。
次の動きが何であれ、対処出来なければ終わり。
回避に備えて、後ろへと足を抜く。
その足元の砂が、何かに弾かれたように唐突に、跳ねた。
「――!」
リーゼは砂獣の動きを待たず、反射的に斜め後方へ逃げる。
抉れた砂は、一瞬で風に浚われた。
撃たれた、と何故か思った。
新手の砂獣か、或いは気のせいか。
その方が確率は高いのに。
味方ではない誰かが、いるはずが。
誘われるように、砂獣が動く。
「ねーちゃんっ!」
コウの甲高い声に、どこか安堵したような響きを聴いて、リーゼは思考を止めて更に砂獣と距離を取った。
『リーゼ、お待たせ。頑張ったじゃん』
その声に、指の先まで哀しいほど痺れが走った。
遅いですよ、と言おうとした唇が、震える。
音がしそうなほどに、綺麗に、火花が散って。
牙を剥いた黒い巨体が、傾いだ。




