13、手招く夜
かつん
かつん
訴えるような音に、フィルは目を擦った。
夢現に見上げる天井は、見慣れた案内所のものではない。
狭い部屋一杯に広げた寝具。
隣には、丸くなったリーゼが毛布に包まって眠っている。
「…………」
サナと別れて宿泊所に戻って、寝たのは確か十一時は過ぎていたはずだ。
灯りのない部屋。
風で小さな窓枠が軋む。
かつん
何かが、窓に当たる音。
ああこの音かと、フィルは仕方なく窓辺に寄った。
あどけない寝顔の弟子を起こさないよう、そっと窓を開ける。
月の見えない夜空に、しんと立ち塞がるような風避けの塀。
その塀の向こうから、必死に伸ばした手だけが見えた。
ひらひらと合図を送るその手は、赤いバッグを掲げる。
「サナさん?」
「……んん」
リーゼがころりと寝返って、慌てて口を押さえる。
手は人差し指で通りの奥を指した。
来てくれと手招きをして、バッグと共にさっと消える。
こんな夜中に。
けれど、あの人ならやりかねない。
フィルは仕方なく携帯通信端末を着けて、砂避けのローブを羽織った。
「げっ」
「げって何ですか。それ、こっちの台詞なんですけど」
招かれた通りの奥。
入り組んだ路地で対峙していたのは、サナと白焔だった。
自分で呼んだくせに、振り返ったサナは「やっちまった」とばかりに目元を隠した。
「なんだ、彼も一緒だったわけ? どうでも良いけどさぁ、暇じゃないんだ。君たちに付き合う義理もないし、そろそろ行って良い?」
訊いておいて、白焔はさっと踵を返そうとする。
その腕を、サナが掴む。
意外と怖いもの知らずだ。
「ちょっと待ってくれって! 話くらい良いじゃねえか? な!?」
「あのさぁ、殴られたいわけ?」
軽い調子だったが、眇める瞳は鋭い。
ただでさえ人気のない夜更け。
どこかの裏口を照らすぼやけた灯りが、まだ収まらない風で揺らぐ。
サナは、ぐっと覚悟を飲み込む。
「殴ってくれても良いぜ。おれはな、クラウンに話を訊くまで記者を辞めないって決めてんだ」
「……逆に訊きたいんだけどさぁ、何で僕がクラウンだと思ってるわけ?」
「そりゃ……、なあ?」
「なあって。俺に振られても困ります」
サナは裏切りにあったように、鼻白む。
白焔はさっとサナの手を振り払った。
「何だよ、にいさんだってこいつがクラウンだって思うだろ?」
「いえ、思いませんけど」
「だろー、ほら……って!?」
「何でそんな驚くんですか。俺、その人がクラウンだと思うって言ってませんけど」
というか流石に近所迷惑ですよ、とフィルは一人盛り上げるサナを宥めた。
つまらなそうな顔をした白焔がまた歩き出そうとするのを、サナはしつこく止める。
「だったら、お前がクラウンじゃないって証拠を見せろよ!」
「……サナさん」
そんな切り札みたいに言う台詞じゃない。
がくっと肩を落としたフィルに、言われた当人である白焔はぽかんとして、それから「大変だね、君も」と同情を込めて言う。
うぐぐ、と唸るサナに、白焔はこめかみを人差し指で押さえ、馬鹿にしたように鼻で笑う。
「そもそもさぁ、僕がクラウンじゃないとかクラウンだとか、そういうことをどうやって証明するわけ?」
「あ? そりゃ、1stに確認するに決まってんだろ?」
サナの手段に、フィルは首を振った。
「1stがクラウンを明かすとは思えません。多分、それだけは有り得ない」
彼らのクラウンに対する忠誠は、主従関係のそれに似ている。
クラウンが命じたら、それを覆すことは1stには出来ない。
現実に、出来なかったのだから。
言い切るフィルに、サナの勢いが削がれる。
「んじゃ、GDUの関係者に訊くさ」
「関係者くらいじゃクラウンの正体なんて知りませんよ。もっと踏み込んだ立場の人なら、1stたちと同じ。それこそ命を賭けても隠し通すくらいの覚悟でいるはずです」
「……だーっ! じゃ、こいつに砂獣退治でもさせてみれば良いのか!?」
頭を掻くサナを放って、フィルは白焔に「悪かったなー」と謝る。
「何か拘りがあるみたいで。悪い人じゃないから、大目に見てもらえると」
「……クラウンに拘りがあるのは、君も同じに見えたけど?」
見透かすような瞳は、暗い灰色。
フィルはその瞳を見返して「まさか」と笑う。
「クラウンはGDUのトップ。一介の案内人が、拘りを持てる相手じゃないだろ?」
「ふーん。まあ、そういうことにしておいてあげても良いよ」
フィルはさっさとサナの腕を引いた。
「…ほら、サナさん、もー帰りましょう。大体、何で彼追っかけてんですか。また連中に絡まれても知りませんよ?」
「いやー、そりゃ、夜中にふらふら歩いてんの見かけたら、追いかけずにはいられないって言うか」
「………」
ふと、フィルは首を傾げる。
砂避けのローブは羽織っているが、サナも宿から飛び出して来た口なのだろう。
手には手帳しか持っていない。
「サナさん、バッグ…」
「あ?」
足元に視線を落としたフィルに釣られて、サナも自分の周囲を見渡す。
暗闇が溜まる石畳のどこにも目印の赤は見当たらない。
「どうした?」とサナに訊かれて逆に「どうしたんですか?」と訊き返す。
そこに白焔が「あのさ」と強引に割って入った。
「あのさ、『連中』って趣味悪い髑髏着けた奴ら? あいつらに、何か喋ったわけ?」
白焔の機嫌の悪い声に、フィルは「いや、何も喋ってねーよ」と答える。
「コウのこと喋ったんじゃなくて?」
「コウ? 何で?」
フィルは視線を上げた。
白焔は、睨むようにフィルを見返して、首を振った。
「いや、何でもないよ。じゃ、僕もう行くから」
「ちょっと待てって。クソガキに何かあったのかよ?」
身を乗り出したサナに、「何かあったとして君たちに関係あるわけ?」と白焔は切り捨てる。
「…まさか、いないのか?」
白焔の拒絶を無視して、フィルは聞き返す。
穢竜相手に修行なんて言っていたが、まだ子どもだ。
こんな時間にふらふらしているとは流石に思えない。
彼の答えを待たず、サナが「いないって、平気なのか、それ」と眉を顰めた。
平気じゃないだろと、とフィルは首を振る。
「でもあいつらが関係してんなら、何か言って来そうだけど。どうなの?」
白焔は、諦めたように首を振る。
それはコウがいなくなって、けれど何の手がかりもないということで。
「あいつらじゃねーのかな。それはそれで困るけど」
「人探しは商売柄得意だぜ? 早速聞き込みと行くか?」
意気込んだサナに、白焔が「必要ないよ」と水を差す。
「飼い犬とその客に手を借りるまでもない。余計なお世話ってやつだよ」
「余計なお世話って…」
鋭い眼。
誰も頼らない、そう決めている眼だ。
けれどそれが、妙に腹立たしい。
「あのな」
『………――さん、私、………に、いますか?』
ざぁっと雑音を伴って、唐突に通信が入った。
いつもより頼りなげに聴こえたその声は、間違いなく彼女のものだ。
フィルは右耳を押さえて「リーゼ?」と答える。
拍子抜けした表情で、白焔は肩を竦めて踵を返す。
『…………どこにいます?』
「悪い。ちょっと色々あって、今サナさんと一緒にいる。もう戻るから」
サナが「白焔行っちゃうぞ」と彼の背を指す。
『……――その、そうじゃ、なくて………』
「?」
『私、ちゃんと…部屋にいますか?』
「………悪い、言ってる意味が」
手招きをする手。
掲げた赤いバッグは、消えた。
「…リーゼ、今、どこにいる?」
声が鋭くなる。
サナが何か察して眉間に皺を寄せ、白焔が足を止めてこちらを振り返る。
雑音は風の音になって、少女の声を彩った。
『砂海です』




