13、磁気酔いの果て
「良い訳ないでしょう」
ばん、と扉を開けて、冷たくリーゼが言い放った。
まんまと騙された彼女を、リンレットがからかうように笑い飛ばす。
「冗談だって! でも、二人して聞き耳立ててるのが悪いんだよー?」
言い返せず黙り込むリーゼの後ろで、アルフが申し訳なさそうに頭を下げる。
リンレットは満足したように、先輩ぶった様子で頷いた。
「そんな心配しなくっても、大丈夫だよ」
「………」
何が大丈夫なのか。
リーゼは真っ直ぐにリンレットを見つめて、無言の末「そうですか」と答えた。
「ご歓談中に申し訳ありませんでした。けれど『師匠』と約束があるので、そろそろよろしいですか?」
「約束? してたの?」
不思議そうに振り返ったリンレットに、フィルは「えっと」と考え込む。
約束、してたっけ。
リーゼの金色の瞳が、毛を逆立てた猫のように鋭くなる。
「帰ったら、詳しいことを説明してくれるって約束ですよね?」
「……あ、はい」
確かにその通りです、と頷くと、リンレットが「そっか」と残念そうに呟いた。
「弟子との約束じゃあ仕方ないね。フィル、また、いろいろ話そ?」
にこっと笑って、リンレットは軽い足取りで部屋を出て行く。
すれ違いざま、『タグなし』の二人に手を振って、意味深に笑みを深めた。
そういうところは、父親そっくりだ。
彼女を見送って、リーゼがひんやりとした視線をフィルに向ける。
「部屋に二人っきりなんて、随分と、仲が良いんですね」
「ちっちゃい頃から知ってるしな。向こうも、久しぶりに兄妹が帰って来たくらいには思ってくれてんじゃねえの」
「……フィルさんって、時々どうしようもないです」
「え!?」
リーゼはアルフを連れて、つかつかと部屋に入った。
遠慮しながら入って来た少年に対して、リーゼは気にした様子もなくフィルの傍に立つ。
「言っておきますけど、私、ちょっと怒ってるんですよ」
「…怒ってんのは、わかるけど。理由が、わからないのです、が」
気圧され気味に答えると、リーゼは怒気を抑えるように息を吐いた。
「……フロートの件。離れる方法、あるんじゃないですか」
「あー」
そういえば、初めてリーゼを砂海に連れて行った時、そんな話をしたような。
確かに、どうしても進まなくてはいけない時でも引き返せと言ったのだが、実際には残念ながら今日のようなことも多々ある。
その場合一般的には、フロートに糸を掛けて探索する。
糸は砂海研究機関が開発した特別製で、嘘か本当か、剣で傷付けたくらいでは切れないという。
少なくとも、フィルは「糸が切れた」という話を聞いたことはなかった。
その安全性はともかく、糸を失えば二重遭難の危険があるためGDUも緊急時以外は使用を禁じている。
応用といえば応用、なのだろうか。
「人の命がかかってたら、な。嵐でフロートが吹っ飛んでたらとか、そういう話とは違うだろ」
「…ルートを外れて人を助けに行かなくてはならない場合は、と訊いていたら、教えてくれてました?」
フィルは一瞬悩んで、けれど頷く。
正直、あまり教えたい方法ではない。
だが、問われていたらきっと答えていただろう。
ルートを外れ、人を助けに行く方法は、幾らでもある。
本当に怒っていたのか、リーゼはフィルが頷いたのを見て、あっさりと納得した。
「わかりました。あの糸について詳しく教えてもらう前に、いいですか?」
リーゼは居心地悪そうにしているアルフを振り返った。
彼は包帯が巻かれた右手をだらりと下げ、庇うようにその腕に左手を添えている。
リーゼが利き手の肩を打ったと言っていたから、恐らくは打撲程度は負ったのかもしれない。
だが、大きな怪我もなく磁気酔いも完全に抜けているようだ。
彼は、ゆっくりと頭を下げた。
「…その、今日は、本当に」
そして彼は言葉に詰まる。
唇を噛んで、俯いた。
フィルは「無事でなによりだよ」と苦笑する。
「カディにきつーく叱られたろ?」
「…はい。磁気酔いなら前兆として体調の変化があったはずなのに、どうして報告しなかったんだと」
「そー。磁気酔いは怖いけど、対処を間違えなければ大事にならずに済むことが多いからな。まあ、もう耳たこだろ? 次、気をつけりゃ良いって」
アルフは暗い表情のまま、「でも」と緩く首を振る。
「磁気酔いで幻覚を見るのは珍しいタイプだと聞きました。オレ、案内人に、向いてないんじゃないかって」
聞いていたリーゼが「珍しいんですか?」と心配そうな表情になる。
「珍しい、とは思うな。あんま、幻覚見るって聞かないし。でも、ない訳じゃない。そもそも、磁気酔いって人によって症状がばらばらなんだよ」
砂海の砂が帯びる特殊な磁気。
その磁気を浴び過ぎると、人の脳が「どうも具合が悪いようだ」と錯覚を起こすのだとか。
だから、実際に身体に異常がないのに、様々な症状が出る。
「一番多いのは『酔い』って言う通り気持ち悪くなるって症状だけど、俺は頭痛くなるな。リンレットは節々が痛くなるって言ってたし、中には磁気酔いしたことねえなんて羨ましい奴もいるって噂もある」
そして何より、磁気酔いはその磁気に慣れることで、ある程度発症が少なくなるのだ。
長く案内人をやっていれば、そうそう磁気酔いに悩まされることもなくなる。
けれどアルフは、右腕に添えた手に力を入れて俯く。
フィルは仕方ない、と軽く右耳を押さえた。
「案内人に向いてないって、言って欲しいように見えるけど?」
「……え」
「昨日も言ったけど、別に無理する必要もないだろ。自分の人生なんだから、好きなように選んだら良い」
フィルの言葉に、アルフは意を決したように顔を上げた。
一息に「オレ、案内人になりたいわけじゃないんです」と告白する。
「親に、砂海案内人がどういうものか見ておけって言われて、それでデザートカンパニーに入ったんです。みんなとは、覚悟も思いも違う」
まるでそれが罪のように、彼は言葉を速めた。
「別に案内人の修行が嫌って訳じゃないんです。でも、好きでもない。かと言って、家業を継ぎたいとも思っていない。全部、全部中途半端なんです」
だから、こういうことになったんだ、と自嘲気味に呟く。
磁気酔いが不可抗力とは言え、仲間に剣を抜いた事実は、予想よりずっと彼を苦しめているのだろう。
助けを求めるように、リーゼがフィルに視線を寄越す。
フィルにとって、案内人になるということは「当たり前」だった。
この類の相談に乗るのは、少々気が重い。
「それが悪い訳じゃないだろ? あの子なんてカディの追っかけで案内人になるって決めたって言ってたし、俺だって立派な理由があって案内人になった訳じゃない。まして、まだ十六だろ? ぐだぐだ悩んでたって許されんじゃねえの」
「…………」
「ただ、わかってっと思うけどさ。昨日の想定訓練みたいなことは、砂海じゃ日常茶飯事だ。馬鹿な奴らに脅されることだってあるし、『人喰い』みたいなヤバいのに遭うことだってある」
依頼人や案内人仲間を、砂海で見捨てることだって、ないとは言い切れない。
そして時に、目の前で命を落とすのは大切な、誰かかかもしれない。
「覚悟をしてないと、後悔する。後悔した時は、大抵手遅れなんだけどな」
アルフは「どうしたらいいか、わかんないです」と低く言った。
まだ幼い、少年の顔だ。
「そればっかりは、自分で答えを出せよ。もっとさ、楽に考えたら? 選択肢なんて掃いて捨てるほどある。アルフの家業ってのが何なのか知らねえけどさ、それだって今すぐ継げって言われてるわけじゃねえんだろ?」
ほら深呼吸、と言うと、アルフは素直に深く息を吸って、吐く。
そう。
まだ、何だって選べるはずだ。
「フィルさんは…、ありました? 案内人、辞めようと思ったこと」
ふと、リーゼが静かに訊いた。
気遣わしげな瞳に、鋭さはない。
「なくもないけど、でも、それも手放したら、何も残んない気がしたからな」
「え?」
師匠を失って、ユニオンに咎人の烙印を押されて、その上、案内人であることまで辞めたら。
何も、残らない気がした。
フィルは首を振って、「仕事なきゃ食ってけないからな」と誤魔化す。
「とにかく、焦んないでゆっくり考えてみろって。俺みたいになると手遅れだけど、アルフはまだ胸張って立ち止まって悩んでて良いんじゃねえの? 同期と違うなんて、気にしてたらつまんねぇよ」
何が解決したわけでもない。
けれどアルフはじっと右手に視線を落としてから、顔を上げる。
「オレ、ちゃんと自分で考えて、みます」
「うん。そーしな」
頷いて笑ってやると、アルフはどこか安堵したように頬を緩めた。
リーゼもほっとしたように微かに溜息を吐く。
「そういうところは、流石、年の功ですね」
「と、年の功って。そりゃ、もう二十三ですけど」
「二十三なんですか!?」
多少、元気は出て来たようだ。
そういうところは、やはり若さ故かもしれない。
顔を見合わせて笑うリーゼとアルフに、フィルは「仲良しだなー」と微笑ましく声を掛ける。
ぱっとこちらを見た二人は、何とも言えない表情をした。
「フィルさんって、本当にどうしようもないですね」
「二度目…」
「もう、良いです。遅くまで、失礼しました」
ぺこりと頭を下げたリーゼに、「糸の説明は?」と慌てて訊く。
彼女は逆にきょとんとする。
「明日、戦闘訓練ですよね。万全で臨みたいですし、今夜はやめておきます」
「あ、そうですか」
弟子は「それに」と髪を揺らして小首を傾げた。
「今夜じゃなくても、教えてくれますよね? 師匠」




