23、君を呼び
聞こえたのは、ガラスが砕け散る音と彼女が悲鳴のように叫んだ、自分の名前。
『――! ―――!』
その声は振り下ろされた尾が、客席を潰す音に掻き消される。
目の前で濡れたように光る金色に、フィルは息を吐いた。
ずるりと持ち上がったその尾が、舞台の方へと落ちて行く。
抉れた客席の向こう、何故か四つん這いになっていた男が見えた。
「に、………にいさん、生きてたか……」
「は? 勿論ですよ」
がく、と首を垂れた彼とは反対に、カディは舞台から顔を上げてこちらを睨む。
『……貴方』
低く押し殺した声は、怒りで震えている。
『貴方、『馬鹿なんですかっ!?』』
カディの声に、甲高い少女の声が重なった。
『馬鹿なんですね! そうなんですね! 本当に、信じられませんッ! 一体どういう神経してるんですか。自分の頭上に誘導弾撃つなんて、死にたいんですか! 本当に、本当…、馬鹿ですっ!』
フィルは思わずイヤホンを耳から浮かせた。
少女の声はゆっくりと勢いを失い、やがて呟くほどに小さくなる。
『何なんですか、……、やめて下さい。本当に、貴方が、死んじゃうんじゃないかと思って』
リーゼ、とフィルは呼びかけた。
もしかしたら、もう呼ぶことはないかもしれないと思ったのに。
蟠っていた何かは、その音と消えた。
「…ごめん。でも、その、ちゃんと避けるつもりだったし、実際こうして無事なわけだし」
『………反省の色が見えません』
「申し訳ないです」
近くにいた者ほど、わからなかったのだろう。
距離を置いて見れば、フィルの行動が自身の退避も含めた上で選択されたものであると理解出来たはずだ。
未だ撹乱に奔走しているリンレットから、『ほどほどにしてあげてよ』と優しい通信が入る。
『もう、いいです。そっち行きます』
「え」
『このまま貴方が無茶するの黙って見てろって言うんですか? まっぴらごめんです』
言い切ったリーゼの口調は、清々しい。
フィルが止める間もなく、ルレンの背後の客席からミルクティー色の髪を揺らして少女が飛び出す。
リーゼは見慣れた砂海科のスカートを翻して、駆ける。
脱力したままの男には眼もくれず、尾の一振りで抉れた跡をひょいと飛んだ。
軽々と、距離を詰める。
フィルを見上げる金色の瞳に、責めるような色はない。
「…フィルさんって、本当にどうしようもない人ですね」
回線越しではない、柔らかい声。
「それ、俺の台詞」
「そうですか? 私たち、似た者師弟ですね」
ああ、とフィルは悔恨に似た感情を吐き出す。
関わった時点で、フィルの負けだったのだ。
「そーだな」
フィルはリーゼの頭を撫でた。
かつて師匠がしてくれたように、軽く宥めるように。
リーゼは呆気に取られた顔でフィルを見上げて、すぐに俯く。
『感動の再会は終わりました? そろそろ加勢に戻って来て下さると有難いんですが』
白々と、けれどどこか面白がるような口調でカディが通信を入れる。
仕事の早い彼は倒れていたもう一人を助け起こし、すでに避難させていた。
そして通信を入れる間にも、アックスを構えてリンレットのもとに駆け出している。
まだ迷子との戦いは終わっていない。
その鱗が叡力弾を弾く火花も、先程よりかなり少なくなっている。
叡力切れか、或いは叡力銃での攻撃が全く無意味だと判断した案内人が手を引いたからだろう。
『フィルとカディで、さっきみたいに出来ないかな?』
『…微妙ですね。かなり大きいですし、興奮しているので動きが読めません。誘導弾、効くと思いますか?』
「全く効果なしとは言わないけど、さっきみたいに完全に動きを誘発させることは難しいな」
カディとリンレットに答えて、フィルもまた叡力銃を構え直す。
出来て、先程のようにわずかに狙いを逸らすくらいだろう。
リンレットを追って壁に体を打ちつけた迷子は、勢いを殺すことなく獲物を喰らおうと口を開ける。
『…了解です。それでは折角ですし、解決策を募りましょう』
リンレットを庇うように、彼女を狙うその牙を往なしながらカディが問いかけた。
『ルレンさんに助けてもらったら?』
『右に同じ。充分に頑張ったろ』
『首を叩き落とすのは無理そうですよね。叡力銃も弾かれちゃって効果なし』
次々と入る通信に、リーゼがフィルの袖を掴んだ。
「外が駄目なら内側を攻撃することって、出来ないでしょうか?」
「そりゃ、おじょうさん。言うほど簡単なことじゃねえよ」
だらりと力を抜いて座ったままの男が、フィルの代わりに手を振って答えた。
彼は舞台を見下ろして、リンレットとカディを追う迷子をのんびりと指差す。
「内側っていや、口ん中ってことだろ? あれだけ動いてんだ。難しいどころの話じゃねえ」
「出来ないんですか?」
カディとは違い純粋に疑問符を付けて、リーゼはフィルを見上げる。
フィルは叡力銃に嵌めた赤いカートリッジを撫でて、首を捻る。
「ほれ、さすがのにいさんだって厳しいだろ」
「おじさんには訊いてないです」
「…お、おじさんて」
疲れ切ったように男はまた項垂れる。
どん、と舞台の砂を長い尾が打つ。
残っているガラスが音に震えた。
「出来ないことはないんだけどな」
フィルの呟きに、リーゼはぱっと瞳を輝かせる。
「でもな、相手に対してこの叡力弾だと威力が低すぎる気がするんだよな」
元々叡力銃の殺傷能力はかなりのものだ。
けれどそれは対砂獣となると話が変わる。
まして、あれだけの大きさの迷子が相手。
期待するほどの効果があるとは思えない。
「初めて砂海に出た時に貸して下さった、あれは…?」
「あー、あれ。確かに叡力銃よりは威力あるけど、物凄い大差があるわけじゃないぞ。それに、持って来てないし」
「そうですか…」
リーゼは肩を落とす。
それでもルレンが出張らないのであれば、やる他ないだろう。
この閉鎖された舞台で、最も現実的な選択肢だ。
フィルは「ま、やるか」と肩を竦めて、真っ直ぐ舞台へと銃口を向ける。
リンレットとカディは2ndの中でも腕利きだが、いつまでも迷子と遊んではいられないだろう。
「ティントの試作カートリッジくらいに威力があれば一番なんだけどな」
まあ、あれは結局フィルの叡力銃では撃ち切れなかった訳だが。
二ヵ月前の痛い思い出にフィルは苦笑する。
「…試作カートリッジ」
リーゼがふっと、言葉を繰り返した。




