28、いつかその時が来たら
『ねー、ねー、ちゃんと聴いてる?』
リーゼがふっと首を傾げて、椅子を近付けた。
通信相手が誰か、微かに漏れる声でわかったのだろう。
口だけで、「ご機嫌斜めですね、ティントさん」と言う。
その間も、ティントの文句は止まらない。
調子の良い情報端末の電源を落として、通信に入らないよう溜息を吐いた。
新しく支給された携帯通信端末。
今のところ、ティントの愚痴にしか役立ってない。
案内所の本棚に挟まれた小さな窓から、心地良い風が入って来た。
旧式の電話のディスプレイが、正午を知らせる。
本格的に、暑い。
「聞こえてるって」
『あのねー、そんなのんびりで良いの? 明らかにね、フィーくん、君、超貧乏くじ引いてるよ!』
すぐ隣で、リーゼが小さく笑った。
そんなこと言われても。
『フィーくん、ちょっとは抵抗しなよー。良いように利用されてさー、損してるの君だけじゃんか』
「まあ、否定はしねぇけどさ」
『あのおじさん、自分は引退してもやることやるつもりだよ? そのためにわざわざ口噤んだんでしょ。王室に恩売ってさー、えげつないこと考えるよ。僕に言わせれば、GDUも同罪だけどね』
引退説が囁かれるアルカーナ議長は、真相を「事故」と偽って表舞台を去るらしい。
あの暗殺未遂事件の裏で起きたことは、王室にとっては絶対に隠し通したい汚点。
彼は目的のために、敢えて沈黙を選んだのだろう。
今後、王室が彼の政策を支援するであろうことは、フィルにも何となく理解が出来る。
それは、恐らくGDUも一緒だ。
第七王子の罪を追及しない代わりに、GDU独立のための助力を乞うつもりだろう。
何とも、強かな話だ。
『感心してる場合?』
「……一応、GDUから治療費も休業手当も出てるし。俺がごたごた言っても、仕方ねぇかなって」
そもそも。
こうして今生きているだけで、フィルも一つ利益を得ているのだけれど。
リーゼが何か言いたげな眼をする。
わかってる。
貧乏くじを引いたのは、間違いない。
イグに帰ってから。
問答無用で拘束されて尋問、裁判を覚悟していたのに、待っていたのは強制入院と検査だった。
それは、先に救助されたクラウスも同じだったらしい。
もっともフィルは殆ど意識のないまま徹底的に検査を受け、気付いたらすでに怪我のための入院に切り替わっていた。
そして病院のベッドで事情を訊かれ、GDUとしての判断を聞くことになる。
大丈夫だとは思いますが、『女王』の影響がこれから出る可能性も、完全には否定出来ません。
貴方が今後人を喰うようなら、1stが貴方を処分します。
けれどそうでなければ、今回の一件は不問とします。
そう宣告したのは、やはりレイグだ。
何だ、それ。
レイグは言葉少なに、GDUにも事情があるのですよ、とだけ言った。
死にたいわけではないのでしょう、と訊かれれば、フィルも頷くしかない。
図らずもクラウンの身代りとして案内をさせられたこと、そしてGDU独立の布石となったこと。
嫌な事情だが、その辺りが本音だろうか。
それは、クラウスの処遇にも影響したようだ。
彼もまた、女王宮立ち入りに関しては罪を問われないことになったと言う。
監視としてイリアが付き添い、怪我がある程度回復した時点で秘密裏に離宮に護送されたそうだ。
仮にも第七王子。
その他の罪も、そう深くは追及されないだろう。
直接的に被害を被った議長さんはどうやらそれで良いようだし、フィルとしても、最早どうでも良いことだ。
あそこまでして、彼が救いたかった人。
彼が生きて、その人の傍に帰ることが出来たのなら、それで良い。
『フィーくん、僕はね、怒ってるんだよ』
「あ、はい」
けれどティントは、やはり納得いかないようだ。
心配をかけた手前大人しく聞くのが筋だろうが、日に何度も通信を入れて来なくても。
『――――だからね、君は、僕に、ご飯を、奢ってくれても良いと思うんだ!』
「……え、飯? いつから、んな話になった?」
『今』
ティントは即答する。
ここまで会話をぶっ飛ばしておいて、堂々としたものだ。
『お腹空いたんだよー。フィーくんだって退院したけど、まだ仕事復帰は出来ないでしょ。じゃあ、暇してるよね? 超暇人だよね? 丁度良いじゃんかー!』
フィルは右耳を押さえるようにしてデスクに肘をついた。
相変らずだ、ホント。
『フィーくん、僕はね、お腹が空いたんだよ』
「お前、怒ってんのか腹減ってんのか、どっちなんだよ!」
『やだなー。どっちもに決まってるでしょーが』
じゃあ旧区のお店で待ち合わせね、と勝手に取り決めて、ティントは通信を切る。
リーゼが首を傾げて、「ご飯、行くんですか?」と少し嬉しそうな顔をした。
フィルは肩を竦める。
「奢れってさ。ま、良いけど」
「ティントさん、まだ心配なんですよ。フィルさんがちゃんと元気だって、確かめたいんだと思います」
「……んな健気な感じじゃなかった」
リーゼは「そうですか?」と笑って、ひょいと立ち上がると風が通る窓を閉めた。
そしてくるりと振り返ると、金色の瞳を悪戯っぽく細める。
「ね、フィルさん。私も、凄く心配したんですけど」
咄嗟に、返す言葉がない。
フィルが負った傷は、やはり軽くはなかった。
うっかり生死の境を彷徨って、またこの子を泣かせた自覚はある。
こうして何とか病院を出て来られたが、しばらくは自宅療養。
仕事復帰には、まだ少し時間がかかりそうだ。
「ごめんって。もちろん、奢らせて頂きます」
フィルが答えると、リーゼは、にこっと笑った。
帰って来たんだな、と思う。
あの時とは、違う結末だ。
まだ『女王』の手から逃れたと言い切れないけれど、現時点で、フィルに「人を喰おう」という衝動はない。
女王宮からどうやって帰って来たのかわからないけれど、それはもう確かめようのないことだ。
砂海案内人を続けていれば、もしかしたら。
いつか、真実を知ることが出来るかもしれないけれど。
「フィルさん」
「……ん、何?」
目の前に立ったリーゼは、一度落とした視線をゆっくりとフィルに向けた。
「私、ご飯じゃなくても、良いですか?」
「?」
「お詫び」
ああ、とフィルは頷く。
椅子から立ち上がると、リーゼは何故か緊張したように表情を強張らせる。
「何でも良いけど、欲しいもんでもあんの?」
叡力銃とか。
今回GDUから支給された休業手当を回せば、そこそこ良いものが買えそうだ。
でもそれは前から約束しているし、別のものとか。
自然と計算を始めるフィルに、リーゼは不機嫌そうに眉を寄せる。
何だか、懐かしい表情だ。
リーゼはふいに手を伸ばして、フィルの首筋に触れた。
少し背伸びをして、彼女はそのままフィルのタグを握る。
「私が3rdに上がったら、これ、私に、下さい」
声は、微かに震えていた。
けれどフィルを見上げる瞳は、穏やかに凪いでいる。
「これって、タグ? 昇格したら、こんな傷だらけのじゃなくて綺麗なの貰えんのに?」
「これが、良いんです。……これが、欲しいんです」
不思議なもの欲しがるな。
女の子って良くわからない。
「こんなんで良いなら――」
言いかけたフィルの口を、リーゼが指先で止めた。
あたたかい、指先の感触。
流石に驚いて身体を引く。
握っていたタグを放した彼女は、指先を組んで口元を少し隠した。
そして、微笑む。
「3rdに上がったら、もう一回改めて、お願いしますね」
「……良い、けど。別に勿体ぶるほど貴重なもんじゃねぇし」
あげるよ、と言うと、リーゼは少し考え込んだ。
けれどすぐに頷く。
「じゃあ……、その時が来たら、私に、下さい。絶対ですよ? 約束、ですからね」
「うん。わかったって」
何でそんな必死なんだろ。
フィルが思わず笑うと、リーゼはぱっと顔を逸らした。
ミルクティー色の髪が、横顔を隠す。
彼女はそのまま、フィルの手を掴んで引っ張った。
「行きましょう、フィルさん。ティントさん、待たせると泣いちゃうかもしれません」
「いやいや。泣かないだろ、あいつ」
泣いているのは、リーゼだ。
頬を伝って落ちたものに、気が付かない振りをする。
その涙が哀しいものでないのなら、良い。
少しだけ、理由を訊きたい気もしたけれど。
「フィルさん?」
「ん、じゃ、行くか」
それはいつか、機会があったらで良いか。
どうせしばらくは、こんな日々が続くのだろうから。
リーゼが開け放った扉の先、夏の陽は白くガーデニアを照らしていた。




