25、師匠
『馬鹿だな、フィー。何で、来た?』
ゆっくりと立ち上がって、その人は振り返る。
師匠。
良かった。
やっぱり、生きていた。
呻くように、息を吐く。
何でって、助けに来たに、決まってる。
師匠は困ったような、笑い損ねたような、変な顔をした。
砂海の深淵で、何を呑気な。
相変わらずの余裕ぶりが、腹立たしい。
師匠はその苛立ちを察したように、先手を打って「悪い」と謝った。
悪いと思ってんのかよ、本当に。
音もなく砂を踏んで、師匠は少しだけ近付いて来る。
「ああ、そうだよな。悪い、心配……、かけたな」
全くこの人は、どうしようもないな。
師匠はじっとこちらを見て、それから首を振った。
微かな動きに合わせて、砂避けのローブが揺れる。
砂の匂いとは、違う。
纏っているのは、血の匂いだ。
怪我をしているようには見えないのに。
「……帰れない。ごめんな」
それだけ言って、視線を誘うよう振り返る。
彼の背後。
確かめるまでもない。
師匠を除いた、十人の行方不明者。
砂に散っているのは、その骸だ。
そして、師匠は静かに自分の手に視線を落とす。
理解しろ、と暗に言われた気がした。
黒く汚れた袖口に、ローブの裾。
何故、「帰れない」?
師匠は、何も言わなかった。
そうだ。
いつもそうやって、大事なことほど答えをくれない。
けれど。
師匠がやったのだと、わからないはずが、ない。
彼は笑った。
「お前はさ、時々、恐ろしく優秀だよなぁ」
あまりに、それは常と変わらない口調だった。
ここは、女王宮。
思い浮かんだことが真実だとしたら、起こったことは惨劇以外の何物でもない。
それなのに。
師匠はふいに一歩踏み出した。
手が届くほどの、距離。
自然と伸ばされたその手を見て、咄嗟に。
咄嗟に、剣を抜いた。
師匠は一瞬哀しげに眉を寄せ、すぐに軽く笑む。
剣を抜いた手が、震えた。
この人を、助けに来たのに。
何故。
「怖いか?」
暗がりに泣く子をからかうように、師匠は肩を竦める。
そんなことはないと、強がることも出来なかった。
彼の背後、斃れたものがちらつく。
本当に、師匠?
目の前にいるのは、本当に、師匠だろうか。
その皮を被った、得体の知れない何かじゃ、ないのだろうか。
師匠は息を吐いて、「フィー」と言った。
「フィー。それで、良い。その判断は、正しい」
砂海案内人として間違っていない、と師匠は頷く。
逃げたい気持ちを、押し殺した。
師匠はゆっくりとした挙動で、抜き身の剣を掴む。
背中を、駆け上がる何か。
指くらい落ちても不思議ではないほど、力が籠っている。
勢い良く、剣を引かれた。
慌てて、手を放す。
師匠は苦く笑って、奪い取ったそれを砂に落とした。
その手に、傷は一つもない。
もう帰れない、と師匠は言う。
「お前と話している俺が、本当に『俺』か、わからない。確かなのは、取り返しのつかないことになったってことだけだ」
取り返しがつかない。
連れては、帰れない。
「もう、帰れ。お前まで、手にかけたくない」
じゃあ、師匠は、どうすんの?
「さあ、どうするかな。随分と頑丈な作りになっちまったし、でもまあ、自分のことくらい、自分で責任取るさ」
良いから、行け。
そう急かされて、立ち竦む。
もう師匠は、人と呼べるものじゃない。
自らの意思ではないとしても、一緒に砂に呑まれた人を、喰らった。
姿がどうであれ、それは砂獣と変わらない。
そして師匠なら、その在り方を受け入れて生き抜くことを、考えはしないだろう。
師匠が、『師匠』のままなら。
強く、首を振った。
このまま、逃げたくない。
この人を、助けに来たのだ。
何もかも捨てる覚悟を、一応は、してきたのだから。
「フィー」
師匠は、優しく名を呼んだ。
彼がくれて、彼が勝手に省略した呼び名だ。
今度は、手は震えなかった。
ホルダーから抜いた叡力銃を、真っ直ぐに師匠に向けた。
「……フィー、良いのか?」
どこかほっとしたように、師匠は言った。
その選択が間違っていないことに、ただ安堵する。
生きていて欲しかった。
だから、こんなところまで来た。
けれどそれが無理ならば、せめて。
「撃てるのか?」
撃ちたくはない。
けど、撃てる。
師匠は、「お前らしい」と笑った。
笑って、それから深く息を吐く。
「なあ、フィー。ここから出たら、全部忘れちまえ。全員死んでた。間に合わなかった。それで、良い。頼むから、抱え込むな」
可笑しくなるくらい必死に、師匠はそう説いた。
それが出来るかどうかわからなかったが、反射的に頷く。
少しでも躊躇えば、きっと師匠は頼ってはくれないだろうから。
「…………助かる。ごめんな、フィー。頼む」
他に、どうしようもなかった。
でも。
何で、この人を撃たなきゃいけないんだろう。
何で、一緒に帰れないんだろう。
「ちゃんと、生きて帰れ。そこそこの大人になって、好きな娘と家庭を持って、適当に爺になれ。フィー、だから、砂海で、死ぬなよ?」
うん。
努力は、する。
彼は安心したように、酷く優しく、笑った。
『生きて、帰れ。フィー』




