23、手
怒らせたな、と思った。
叡力銃がどこに当たったのかわからないが、それなりに効果があったのだろう。
それは幸運でもあったし、不運でもあった。
それまで、玩ぶようだった追跡が、一瞬で捕食者のそれに変貌する。
もう、無理に走る必要はなかった。
砂に呑まれては流され、何とか起き上がっては叡力銃で追撃を凌いだ。
引き金を引く指が、痺れる。
持つだろうか。
足元が、揺れる。
その気配は、手で掴めそうなほどに濃い。
さっきから、少しずつ距離が縮まっている。
次の手を考える暇もない。
その一瞬を生き抜くので、精一杯だ。
ごう、と音がする。
それがどこに振り下ろされるのか、判断出来ない。
直感のまま、フィルは砂を転がった。
衝撃が傷に響く。
とりあえず、まだ生きている。
立ち上がって踏み出した足が、不安定に揺れた。
力が抜けるのとは、少し違う。
「……?」
漆黒に目を凝らすと、眼前が深く崩れ落ちているのが見える。
遺構の舞台ほどはありそうな、巨大な、穴。
どれほどの深さか、わからない。
流石に、背筋を冷たいものが走った。
咄嗟に迂回しようとした瞬間、嫌な手応えに再び足を止める。
糸だ。
もう、残りがない。
これを放さないと、逃げられない。
けれど、これを放したら。
「……っ」
生温かい、風。
糸から手を放して、飛び退く。
フィルがいた場所を、細長く撓るものが打ち据えた。
元々脆い岩盤が抉られ、音を立てて穴が広げる。
その振動で、膝をついた。
立ち上がろうとする意思に、身体はついて行かなかった。
平衡感覚が、おかしい。
さあっと血の気が引く。
駄目だ。
振り下ろされたのは、前肢だろう。
叡力銃を撃つ間も、なかった。
「ぁ、ぐ」
どん、と身体を掴まれ、地面に押しつけられる。
フィルを捕えたその肢は、二つに割けた指先を砂に突き立てた。
ぐぅと物凄い重さが圧し掛かって来る。
押さえ込まれた腕は、動く隙もない。
「……ッあ、あ」
ぞっとするほどはっきりと、骨が軋む音がした。
そしてそれを掻き消すほどの鼓動。
押し潰される。
遙か頭上から、それは顔を覗き込むように近付いて来た。
舌が蠢く口を引いて、頭を下ろす。
滑らかな頭部の一点に、僅かな裂傷が見えた。
ぱくりと割れた肉の奥に、眼。
忙しなく震えるそれは、退化の末そこに埋もれたのだろう。
フィルが撃った叡力弾は、眼を覆った薄い肉に当たったのだ。
致命傷ではないが、さぞ、痛かっただろう。
そこから流れ落ちる血が、フィルの頬を温かく叩いた。
これは、もう、駄目だ。
息を、吸えない。
確かに目の前にあるはずの光景が、ばらばらになる。
叡力銃の引き金にかけたままの指が、痙攣した。
もう、良いだろうか。
朦朧としながら、思った。
リーゼたちが逃げる時間くらいは、きっと稼いだ。
携帯通信端末がその瞬間機能していれば、GDUに死亡を知らせてくれる。
上手く壊れてくれれば、探知もしようがなくなる。
あの子だって、諦めてくれるだろう。
それなら、これ以上、抗う必要があるだろうか。
ここで、
絶対、貴方を助けます。
命を脅かす音を掻き消して、その声は、涼やかに響いた。
力が、抜けていく。
意思に反して頭が傾いだ。
ちり、とタグが音を立てる。
多分、これで、終わりだ。
打てる手は、これが最後。
感覚は、なかった。
でもまだ、叡力銃は、握っているはずだ。
「――――ッ!」
動け。
銃口を地に向けて、引き金を、引いた。
音は、しなかった。
ふうっと、圧し掛かっていたものが消える。
違う。
地面が、崩れた。
落ちる。
それは短く啼いた。
穴への落下を逃れようと、身を捩ったのが、わかった。
浮遊感に、呑まれる。
どこまでも、昏い。
フィルはやっと息を吸って、眼を閉じた。




