21、そのために出来ること
まだ収まらない砂煙の向こう。
白く長いものがゆらりと這い出して来る。
舌だ。
同時に砂から突き出した長い前肢が、目の前に崩れ落ちてきたものを弄った。
その緩慢な動きに、獲物を逃す焦りは感じられない。
あれにとっては全てが、狩りの過程。
それを、愉しんでいるのだ。
フィルは唇を噛んだ。
「時間、ないんです。クラウスさんと……、リーゼを、お願いします」
『私たち1stに命令を下せるのは、クラウンだけ。それでも貴方は、私に、貴方を見捨てろと言うのですか?』
「……女王宮の中は、入り組んでる。足手纏いがいなければ、砂獣を撒ける可能性もあります」
可能性は、まだ零ではない。
嘘だと、イリアも言わなかった。
「イリアさん。クラウスさんとリーゼを連れて、イグに」
イリアなら、二人を無事に連れて帰ることが出来るはずだ。
彼女は静かに、『それが、貴方の望みですか?』と問う。
深くは考えなかった。
フィルはただ、「はい」と答える。
『わかりました。二人を連れて、イグに戻りましょう。でも――……』
ざざ、と通信が乱れた。
間髪入れず、声が飛び込んで来る。
それは、リーゼの声だ。
『……――フィルさん! 私っ』
彼女の傍でやりとりを聴いていたのなら、状況は理解出来たはずだ。
フィルは苦く笑う。
「リーゼ」
『私は、嫌です! 貴方を、助けに来たのにっ……、何で? 大丈夫です。一緒に……』
「リーゼ、砂海案内人として、判断しろ。もう、出来るだろ?」
『だって……、だって、そんなの、酷いです……』
来てくれて嬉しいと思ったのは、確かだ。
一緒に帰れるのなら、どんなに良いだろう。
ただその手を取ったら、あれは彼女も呑み込むだろう。
かつてイグで見た惨劇よりも、その結果が何より、怖い。
ごめん。
言いたかった言葉を堪えた。
「八年前だって、ちゃんと……、帰った。まだ、可能性はある」
『……本当、ですか? 約束、出来ますか? フィルさん』
約束、か。
歌うような咆哮が、聞こえた。
崩れた穴から、それが姿を見せる。
前肢が柔らかく砂を掻く。
あの時の迷子より、遥かに大きい。
重そうに擡げた頭は、その全長に対して肥大しているようにも見えた。
白く長い舌が、だらりと口から垂れ下がる。
手のように動いていたその前肢は、ゆっくりと腹の脇に引いていった。
何が、とは言えない。
けれど生物として、どこか歪だと思った。
フィルはクラウスの腕を離し、その手から糸を受け取る。
彼はしんとした瞳で、フィルを見た。
「砂海に、『絶対』は、ない。でも、最後まで諦めない。生きて帰るのが仕事だって、言ったろ」
『そんなんじゃ……、そんなんじゃ、嫌ですっ! 私、一緒に』
掠れた声で、彼女は叫ぶ。
フィルはぐっと奥歯を噛んだ。
リーゼに、同じ道は歩ませない。
そのために出来ることは、どんなことでも。
「なりたかったのは、そんな案内人なのか? 肝心な時に判断を誤るようなら、これからやって行けない。リーゼ自身が死ぬ前に、砂海案内人なんて辞めちまえ」
『……ッ』
「……イリアさん一人じゃ、クラウスさんを引き上げるのは厳しい。彼女を援護して、イグまで帰還しろ」
苦しげな吐息を、祈るような気持ちで聴いた。
生きて帰れ。
それだけで、良い。
『わかり、ました。イリアさんを、援護して……、イグまで帰ります』
「……」
『イグの案内人たちに状況を伝え、救援と襲撃対応を依頼します。合流出来たら、私は、一人でここに戻って来ます。貴方を、絶対助けます。これが、私の判断です。文句なんて……、言わせません』
鋭く、彼女は言った。
思わずフィルは笑う。
あーあ、優秀な弟子を持つとこういう時困る。
「わかった。それで良い」
『……フィルさん』
フィルは首元に手をやった。
これが、最後かもしれない。
『私――、』
その先を聴かずに、フィルは通信を切った。
同時に、叡力銃を構える。
赤い叡力カートリッジを嵌め、目の前のものに向けて、引き金を引いた。
頭部、そして舌が蠢く口。
弾けた叡力に、それはくすぐったそうに身を捩る。
カートリッジを入れ替えると、呻くように名を呼ばれた。
「フィルさん」
その表情を見る時間はなかった。
「貴方に案内を頼んだのは、間違いでした」
クラウスは、そう言った。
引き金を引く。
大きく口を開けた、女王宮への入口。
その洞の一つへと。
尾を引くような、誘導音。
その音を追って、フィルはそこに飛び込む。
巨大な頭を振って、それが嬉しそうに啼くのが聴こえた。
追って来る。
気配を感じながら、後はただ、深淵へと駆けた。




