19、案内の終わり
糸の手応えがなくならなかったのが、唯一の救いだった。
ただ、足を止めずに闇を抜けて行くだけの力は、残念ながらなかった。
上手く動かない足が、落ちて来る砂で滑る。
バランスを崩して膝をつくと、意識を失ったままの人間の重さが背骨に圧し掛かった。
身体を動かしていた切迫感が、すり抜けて行く。
ぐらぐらする頭を垂れて、フィルは一度目を閉じた。
磁気酔いの痛みが、急かすように強くなる。
焦るな。
息を吐きながら顔を上げて、糸が続く暗闇を睨んだ。
立ち上がるため縋るものを探した指先が、崩れた洞の口に触れた。
砂を採取したいと、クラウスが潜り込んだ小さな洞。
あそこまで、戻って来たのだろうか。
それが、実際そうなのかどうかはどうでも良い。
フィルは、空洞の奥へとクラウスを引き摺って横たえた。
彼は微かに呻く。
出血はしていないようだ。
とりあえず、生きている。
それだけ確認して、フィルは砂壁に背を預け身体を丸めた。
ベルトに吊ったポーチから応急処置用の薬剤を取り出し、蓋を指先で外す。
手繰ったローブと服は、重く濡れている。
良くこれで済んだなと妙に感心した。
袖口を噛んで、フィルは声を堪えた。
薬剤を傷にかけると、しゅ、と音がして濃く漂う血の匂いが僅かに薄れる。
「………、……はー…っ」
息が上がる。
手持ちの包帯を巻き、傷を強く圧迫したまま膝に額を当て呼吸を隠す。
「…………フィル、さん」
掠れた声に、フィルは顔を上げた。
すぐ傍でクラウスが身体を起こす気配がする。
微睡むようなその声に、微かな笑いが混じった。
「左足が、痛いです」
無くならなかっただけ、ましだ。
クラウスは全く気にした様子もなく、「襲って来たのは、『人喰い』でしたか?」とのんびり問う。
「……さあな」
斬りかかってみれば、その手応えでわかったかもしれない。
いや、確かめる前にきっと喰われていただろうけれど。
その意味では、あれは人喰い以外の何者でもない。
「そうですか。せっかくのチャンスを逃したかもしれません」
「…………」
「思うようには、いかないものですね。生まれてからずっと、そんなことばかりのような気がします」
その感傷に付き合う余裕はなかった。
ただクラウスも、そこまで望んではいなかったのだろう。
酷く冷めた口調で、「損な人生ですね」と吐き捨てる。
それ以上それについて語ることはしなかった。
ふう、と息を吐いて、彼は荷を探る。
「フィルさん」
唐突に押しつけられたものを、思わず受け取った。
それが何か、見ないでもわかる。
「貴方の携帯通信端末です。お返しします」
「…………どういう」
「どういうつもりも何も、貴方は、もう帰って下さって構いません」
なんて言った?
一瞬、痛みも忘れて瞬いた。
クラウスは悪戯っぽく笑う。
「貴方が必死になって守ろうとしている人たちは、今頃解放されていますよ」
「…………」
あの人には敵いませんから、とクラウスは呟く。
それが誰のことかわからないが、言葉には深く親愛が滲んだ。
「レイも逆らうことはしないでしょう。私としても、貴方を確実に動かすことが出来ればそれで良かった。最初から、お二人を始末しようとまでは思っていません」
彼は笑い声を押し殺した。
くぐもったその声に、怒りは湧いて来なかった。
今更、怒ってどうなることでもない。
「ねえ、フィルさん。お互い、命を賭けても惜しくないものがあるというのは、不幸なことでしたね」
不幸じゃ、ない。
ただ言い返したかった言葉を、呑んだ。
時間の無駄だ。
やっと返って来た端末の本体を首に巻き、イヤホンを付けた。
ひやりとしたタグを握る。
ざざ、と雑音が途切れ途切れ入った。
聞き慣れない電子音がその合間に続く。
上手くすれば通じそうだが、女王宮内の磁気の影響を受けているのだろう。
大丈夫だ、まだ。
「……ここまでの案内、ありがとうございました。貴方は、もう自由です。どうせこの足では逃げられません。せっかくですし、私はここで『人喰い』を待ちますよ。もしかしたら、『女王』が来てくれるかもしれませんし」
待ち遠しいとでも言いたげに、彼の口調は嬉々としていた。
フィルを逃がそうと言うのではない。
本気で、そう思っているのだとわかる。
「諦めるくらいなら、死んだ方がましですから」
「……――煩い。ちょっと、黙ってろ」
ぐっと傷口を押さえて、フィルは言った。
クラウスは少しばかり驚いたように、口を噤んだ。
「もう、自由だって言うのなら、俺は、俺の判断で動く。置いてけだの、言われる筋合いねぇな」
「…………悪い話ではないと思うのですが? 私を置いて行った方が、生きて帰れる可能性は高くなりませんか?」
一概にそうとも言い切れない。
今、血の匂いを纏っているのはフィルの方だ。
彼を置いて行っても、置いて行かなくても、砂獣は追って来るだろう。
どうしようもない。
それなら、ただ。
「俺たち砂海案内人は、生きて帰るのが、仕事だ。どんな状況でも、最後まで、諦めない。俺は、師匠にそう教えられたし、そうやって……、生きて来た」
砂に手をついて、重い身体を起こした。
気配を察して、クラウスが身じろぎをする。
「置いて行って欲しいと言っているのに? 人が良いのも、度が過ぎると身を滅ぼしますよ」
「……貴方は、『女王』をここから連れ出そうって考えてる危険人物だろ。捨てて行って、万が一にでも生きて帰って来られちゃ、面倒だ。置いて行くくらいなら、確実に殺す。そして殺すなら、もっと有益な状況でやる」
「なるほど。一応、筋は通っているかもしれませんね」
クラウスの腕を掴むと、彼は抵抗もせずフィルの背に身体を預けた。
やはり、思い通りにならないですね。
そう寂しげに、呟く。
この人は、本当に、そればっかだな。
フィルは深く呼吸をして、奥歯を噛んだ。
ここからは、襲撃を躱しながらの逃亡となる。
どこまで行けるかは、わからない。
女王宮を出られても、あの海溝を上れるだろうか。
力が抜けそうな足で、必死に砂を踏みしめた。
ざざ、とイヤホンが音を拾う。
今繋がったところでどうにもならないけれど、ただ、誰かの声が聴きたいと少しだけ思った。




