16、海溝の底
数歩先で、唐突に砂は漆黒に落ちていた。
深く刻まれた海溝。
遙か遠く何事もなく続く砂海が、水平線のように見える。
ここを越えて果てまで行った人間はいないんだろうな。
フィルはぼんやりと思った。
「…………着きましたか?」
クラウスは息を整えながら、行く手を覗き込んだ。
わかりやすいように、フィルは手にした叡力ライトで海溝を照らす。
ゆっくりと、音もなく砂が流れ落ちて行く先。
その光は闇に吸い込まれ、何も照らし出さない。
「…………」
流石に言葉もなく、彼は黙り込んだ。
「この下が、女王宮」
「……下りるのですね」
聞き慣れない音を立てて、風が吹いている。
フィルは指先で糸を一度止めた。
夜に覆われて良く見えないが、普通の海溝よりは緩やかに斜面が続いている。
それはこの巨大な海溝が、長い年月をかけて少しずつ崩れ広がっていることを思わせた。
厳しいことは確かだが、下れないことはない。
実際、一度はここを下りたのだ。
クラウスは、やはり「行きましょう」と言う。
これを前にまだ進もうと言うのだから、わかっちゃいたが普通ではない。
「下まで行くのはそう難しくねぇけど、戻るのはかなり厳しい。きついとか言う次元の話じゃないからな」
「ここまで来て、帰るわけにはいきませんよ」
「……この先は、帰りたいって思っても帰れない場所だけど」
風に引かれるまま、糸を滑らせた。
それはこの先、ただ帰路を示すものではなく、文字通り命綱になる。
フィルはクラウスの顔を一瞥して、歩き出した。
傾斜を流れる砂が、足を埋める。
ここを下りたら、とりかえしがつかない。
警鐘を鳴らすものを押し殺して、流れに任せた。
追って来たクラウスが、足を取られ体勢を崩す。
その腕を取る間に、一気に数十メートルは下降しただろうか。
夜空の明るさを、遠く感じる暇もない。
ただ、落ちる。
砂の匂いが、強い。
それは最早、嗅ぎ慣れた匂いではなかった。
嵐の時に危機感と共に感じるような、圧倒的な磁気。
意識するのは、危ない。
フィルは思考を切り替えた。
あの時は、焦りもあって転がり落ちるように下った海溝。
幸いにも記憶通り、海溝は深くなるほどに足元の感覚が変化する。
水を踏むようだった斜面に、気のせいにも思えるほど微かな固さ。
丁寧に踏み込むと、ここまでとは違い多少踏ん張りが利く。
傾斜の変化を感じながら、フィルは足場を見極めてスピードを落とした。
「……っと」
ようやく辿り着いた海溝の底。
クラウスの腕を放すと、彼はまだ勢いを殺せていなかったらしく、軽い音を立てて砂に手をついた。
砂避けのローブの背が、大きく上下する。
「……こんな風に下りるとは、思って、いませんでした」
「他にどう下りんの?」
ロープは固定する場所もないし、垂らして下りているところを砂獣に襲われれば対処のしようがない。
ここまで来るのに、まともな方法なんて最初からない。
挙句帰りは糸を掴んで海溝を上ろうと言うのだから、本当に馬鹿みたいな話だ。
濃い闇の中、クラウスはゆっくりと立ち上がった。
そして遙か頭上、帯のように見える空を仰ぐ。
「……後悔してんなら良いけど。砂、目に入るから止めた方が良い」
彼ははっとして、フードを深く被った。
フィルは叡力ライトで、海溝の底を照らす。
爪先で砂を蹴ると、白い岩盤のようなものが見えた。
けれどそれはすぐに砂に呑まれる。
流れは、まだ続いている。
緩やかにそれを追うと、白い岩盤が露わになった斜面が見えて来る。
そこは壁のように垂直に聳え、浸食の末に幾つもの穴が開いていた。
流れ落ちて来た砂が、穴の入口に薄い幕を下ろしている。
「……どこから、入るのですか?」
そこからはあちこちに空洞があった。
時折、砂が足元の闇にも呑まれて行く。
「どこからでも」
「どこからでも?」
「誰かがルート作ってくれてるわけじゃない。この先はただ砂を追ってくだけ」
フィルの返答に、クラウスは何故か面白がるように笑う。
「では、それで構いません。連れて行って下さい」
「……言っとくけど、こん中の磁気は砂海の比じゃない。磁気酔い自体では死なないけど、感覚が狂えばそれだけ危険だ。もう酔ってんだろ?」
静かに問うと、クラウスの笑みは更に深くなった。
あるはずの危機感も、苦痛も、そこには見て取れない。
「流石に、わかってしまいますか。ルートを外れてから、段々と耳鳴りが酷くなって来ました。これが、私の磁気酔いということなのでしょうね」
興味深いです、と最後は他人事のように付け加える。
この人、ちゃんと息してんのかな?
そう疑いたくなるほど、存在が空虚だ。
ただ彼ははっきりと言う。
「勿論、行きますよ」
何度も言われなくても、わかっている。
「……一応、確認するけど、どうやって『女王』を?」
フィルは『女王』の姿を知らないし、それはクラウスも同じはずだ。
そして、この先で無闇に砂獣と接触するのは危険極まりない。
手段は、かなり限られる。
クラウスは荷物を軽く押さえた。
「まず、深部で砂を採取して微生物の類を調査します。危険のなさそうな虫などがいれば、それも採取したいところですね」
「…………」
「『人喰い』に接触出来れば手っ取り早くて良いのですが……、まずはその辺りを目標にしようと思います」
人喰い。
彼は確かに『女王』が何なのか、理解している。
向かう先は、息苦しいほどの暗闇。
僅かに屈んで空洞へと入ると、幾つもの気配が揺らいだ気がした。
風でも、砂でもない。
音色が誘うように、響く。
女王宮。
ここは、砂海の主と畏怖される『女王』の宮。
そして。
人喰いを、『人喰い』たらしめるもの。
それが『女王』だ。




