10、残影
話をしましょう。
そう言ったクラウスに、フィルは返事をしなかった。
立ち寄るなと言われたイグをすでに越え、フロートはR70地点を過ぎている。
踏み込んだ夜は明け、出発日和の今日もまた夕暮れに向かっていた。
多めに休憩を挟んでいるとは言え、砂海に出て一日になる。
「依頼人の体調を確認する意味でも、会話は大切ですよね。まだ女王宮までかかるでしょう?」
「その辺は自己申告してくれ。貴方と世間話とか、かなり苦痛」
フィルは素っ気なく答えて、叡力銃をホルダーから抜いた。
遠く、ルート上を横切るのは砂狼の群だ。
群の頭は一度こちらを窺ったが、そのまま蛇行するように砂間を駆け抜けて行った。
この辺りは、『リィンレツィア』ルート上で、最も死者が多いと言われている。
砂獣の襲撃も多いのだが、怖いのは海溝と呼ばれる巨大な裂け目。
そこに呑まれたら、砂海の深くまで落ちて、終わり。
要は、気休めの会話に付き合うほど余裕がある訳でもないのだ。
けれどクラウスは構いもせず、「そう言わずに」と食い下がった。
「こんなことにはなってしまいましたが、個人的には貴方のことを好ましく思っているのですよ? 互いに理解を深めるためにも、会話は必要ではないですか?」
「だから、状況は忘れて仲良くお喋りしましょうって? 悪いけど俺、んな呑気な人間じゃねぇから」
「理解を深めて、私を説得出来るかもしれません。ほら、貴方にとっても悪い話ではないでしょう」
よく言う。
そんな隙は最初から見せなかったくせに。
フィルは先のフロートを見ながら、黙り込んだ。
GDUは、当然事態を把握していない。
親切で空気の読める誰かが、リーゼとティントを救出してくれるとは到底思えなかった。
クラウスが自ら意志を翻さなければ、状況は何時までも変わらない。
冷静に考えて。
このまま彼の言いなりに進むなら、かなりの確率で命を落とす。
自分が死ぬであろうという予想は、当然愉快ではない。
それでも。
「フィルさん」
「……何」
クラウスは疲れを見せることなく、微笑む。
その笑い方は、初めて会った時と何も変わらない。
「貴方の師匠は、どんな方でしたか?」
女王宮や『女王』について訊きたいのかと思っていたが、どうやら違うらしい。
予想していなかった問いかけに、フィルは少しばかり怯んだ。
彼の瞳は純粋な興味に彩られている。
「砂海孤児だった貴方を引き取って育ててくれた方、なのですよね? 非常に評判の良い2ndだったとか」
「…………」
「粛清時も迅速に住民の救出に当たっていたそうですね。そして、砂に呑まれた。携帯通信端末で生存確認がされたそうですが、その時会話はされたのですか?」
「……――」
「では、貴方が助けに行った時には」
「話したく、ない」
強く拒絶すると、クラウスは驚いたように瞬いて、それから「すみません」と謝った。
「どうやら……、無神経なことを申し上げたようですね。貴方が、誓約を破ってまで助けに行った人が、どのような人だったのか知りたかっただけなのですが」
「……それだけ調べ上げといて、今更どんな人もねぇだろ」
通り過ぎるフロートに触れる。
R80地点。
あと、少し。
「貴方の口から、聞きたいと思ったのです。もしも、『女王』によって、貴方の師匠が救われるかもしれなかったら、貴方は、私と同じ選択をしましたか?」
ゆっくりと沈んで行く陽が、砂海に影を作る。
踏み込んだ足が、その境を崩した。
夜の内には、女王宮に辿り着くだろう。
「師匠は……、案内人として、いつか砂海で死ぬことを覚悟していた。それはあの人にとって誇りだったんだろうし、望みでもあったんだろう」
フィルは静かに言った。
生きていて欲しかった。
けれどそれが叶わないことだとしたら、それ以上、何を望めるのだろう。
「あの時、俺は、師匠を連れて帰れないと判断したし、師匠も、自分は帰れないと言った。『女王』なら、師匠を救えた? 俺はあれがヒトを救えるモノじゃないって知ってんのに、同じ選択も何もねぇよ」
『女王』がいなければ、師匠は。
そうですか、とクラウスは呟くように言った。
がっかりしているようでも、納得しているようでもない。
柔らかい夕闇に、青い浮標の光が浮かび上がる。
R83地点。
女王宮に、最も近いフロート。
ルートはこの先、海溝を避けるように緩やかに女王宮から遠ざかる。
フィルは立ち止まった。
促されるまでもなく、そのフロートに糸をかける。
「………ここからはルートを外れる」
「はい。女王宮は更に北、ですね?」
「砂海北部って意味では、ここから女王宮だけどな」
彼が目指すのは、砂海の深淵。
指先で手繰った糸が、風で撓んだ。
「……今なら、引き返せる。『女王』が齎す不死なんて幻想以外の何物でもない。大切な人を想うなら、今この瞬間に、その人の傍にいた方が良いと、俺は思う」
「……………そうかもしれません。けれど私は、行くと決めたのです」
その返答は、やはり予想通りだった。
それならば、彼自身が諦めてくれるまで進むしかない。
フィルは無言で歩き出した。
足元の砂が、影になった窪みにさらさらと流れていった。




