5、枷
その距離は、僅か。
二歩。
茫然とする白服の男の腕を、手の拘束具で素早く打つ。
男が持っていた台が、衝撃で宙を舞った。
使い慣れた装備が台から落ちて行く。
砂避けのローブが、振り返る勢いで翻る。
床すれすれでナイフの一つを握り、僅かに跳ねた剣を左足で蹴って。
爪先に力を入れた。
レイと、視線が合う。
彼が手にしている叡力銃は、やはり、真っ直ぐにフィルに向けられていた。
良かった。
フィルは笑う。
「やめて……っ」
掠れた声で、リーゼが叫ぶ。
彼女はレイの腕を押さえようと、手を伸ばす。
それより速く、フィルが投げたナイフが叡力銃を弾き飛ばした。
感情の見えなかったレイの瞳に、微かに驚愕の色。
遅い。
床を滑った剣の鞘を軽く踏む。
そのまま、柄を握って振り抜いた。
音は、しない。
鈍く光を帯びる剣を、クラウスの咽喉元に突き付ける。
彼はソファに座ったまま、フィルを見上げた。
「動くな」
殺せる。
フィルの一言に、レイは構えかけていた銀のナイフを下ろした。
この人とまともにやりあったら面倒だ。
瞬間の判断だったが、まあ外しはしなかったらしい。
怯えたように後ずさった白服も、ぴたりと動きを止めた。
「…………、フィルさん」
リーゼは伸ばしかけた手をゆっくりと戻して、泣きそうな顔をした。
目立って怪我はなさそうだが、白く見える頬は少しやつれて見える。
有り得ると思っていた形とは違うけれど、結局、彼女をフィルの事情に巻き込んだ。
ティントまで。
フィルは剣の柄を静かに握り直した。
束の間の静寂を破ったのは、クラウスの微笑だった。
「良かった。やはり貴方を選んで、正解でした」
彼は迷うことなく、手を伸ばしてフィルの手枷に触れる。
咽喉元の剣先など、まるで見ていない。
「とは言え、レイの反応を上回るとは思いませんでした。多少覚悟はしていたのですが、危うく首を取られるところでしたね」
「……まだ取らないとは言ってない」
「わかっています。貴方は必要だと判断したら、迷うことなく人を殺せる人間だ。けれど殺さない方が良いと判断したら、感情がどれだけ命じても手を下さない」
違いますか、と言いたげな瞳を睨んだ。
知ったようなことを。
フィルの嫌悪を見透かすように、クラウスはただ哀しげに微笑む。
「大丈夫。ディナル先生は、生きていますよ」
「…………」
「こればかりはこちらの手違いです。お二人を傷付ける意図はなかったのですが、彼女を助けようと咄嗟に飛び出して来て、レイのナイフが先生の腕を掠めてしまったそうです。治療も済んでいますし、あの時のように毒の類を使ったりはしていませんから」
安堵の反面、その周到さにひやりとした。
「……だから『大丈夫』? リーゼもティントも人質にしておいて、良く、んなこと言えるな」
リーゼが銃口を逃れても動けないのは、ティントが囚われているからか。
反吐が出そうなほど、巧妙な罠。
これは、計り違えた。
彼は困ったように眉を下げて、「すみません」と謝る。
そしてようやく、突き付けられたものを見た。
「貴方は、獣だ。言うことを聞かせようと思ったら、その手を奪い、足を奪い、首を押さえないといけない。幾重にも、枷が必要だとわかっていました」
「……」
「私をここで殺しても、私の目的はレイが引き継いでくれます。どうでしょう。ここでリーゼさんを守れても、どこに囚われているかわからないディナル先生を助けることは、まず不可能です」
どこからかわからないほど前から、この人は何かのために動いていたのだろう。
全てが、彼の手の中で。
「まずは、剣を下ろして下さい。私が本気だと言うことを、お弟子さんの死で確かめたくはないでしょう?」
クラウスは目線をリーゼに向ける。
フィルに斬られる可能性まで織り込んで、動いている計画か。
自分が死んだら、レイが引き継ぐ。
虚言ではないだろう。
「だめ……、だめです……っ!」
鋭く、リーゼが叫んだ。
フィルが出す答えを拒むように、強く首を振る。
「言うことなんて、聞いちゃ……、だめですっ」
レイが言葉を止めるように彼女の肩を掴む。
やはり疲弊しているのか。
リーゼはそれだけで少し体勢を崩し、ふらつく足元に視線を落とした。
悔しそうに、唇を噛む。
「リーゼ」
「私たち……、平気です。ティントさんだって、絶対、そう言います。だから……、だから」
泣かなくて、良いのに。
リーゼは、何も悪くない。
瞳を伏せたクラウスが、重く息を吸い込む。
「選んで下さい。貴方一人なら、ここから逃げることも出来るでしょう。けれどその自由は、お二人の命と引き替えです」
クラウスも、フィルの答えがわかっているのだろう。
手枷を掴んだ指先に、力が籠る。
フィルは静かに身体を引いた。
剣を捨てると、リーゼが微かに声を上げる。
すみません、と何度目かわからない謝罪の言葉。
クラウスはゆっくりと立ち上がった。
フィルを捉える暗い瞳に、躊躇いはない。
咎人、と彼は言った。
全てを知っていて、その上でフィルを「選んだ」のならば。
「フィルさん。私を、女王宮まで案内して下さい」




