4、搦手の罠
ユニオン最後の咎人。
そうフィルを呼ぶのは、あの時の事情を知る数少ない人だけ。
この人が、知っているはずが。
クラウスは肩を竦めて、「流石、あまり驚かれませんね」と微笑む。
「……顔に出ないだけですよ」
真意がわからぬまま、ただ感覚に命じられ身構えた。
フィルは浅く息を吸って、白服の男との距離を測る。
二歩。
行ける。
「意味が、わからないんですけど」
「貴方はユニオンの誓約を破り、『女王』の禁忌に触れた。全て、知っています」
その名を出されて、フィルは短く息を吐く。
誤魔化しようは、なさそうだ。
「……どこで、それを?」
「説明には少し時間を頂いてしまいますが……、いえ、それは私の義務でしょうね。状況もわかって頂かなくてはなりません」
「状況、ですか」
クラウスは少し寂しそうに顔を歪めた。
いっそ豹変でもしてくれれば、こちらも態度を決められるのに。
けれど。
「碌な話じゃなさそうですね」
フィルは僅かに腰を浮かせる。
「ええ、お察しの通り。碌な話ではありません」
酷く端的にそれを認めると彼は振り返って、「レイ」と呼びかけた。
返事は、なかった。
壁にかけられた鮮やかな織物が揺れる。
窓からの陽を遮るように、小さな扉が音もなく開いた。
「………リーゼ」
見間違うはずもない。
柔らかい色の髪が、はっとしたように跳ねた。
彼女は背を押されるようにして、一歩踏み出す。
その背後に立っていたのは、かつての襲撃者。
ターバンで頭と口元を覆ったその人は、確かに大会でクラウスを襲った人物だった。
レイ。
それなら。
それならこれは、一体どこまで彼が描いた「物語」なのだろうか。
「……フィル、さん」
リーゼはぎゅっと瞳を閉じてから、微かに唇を震わせる。
逃げて下さい。
声なく紡がれた言葉。
リーゼはレイに腕を取られ、引き摺られるように連れて来られる。
行動に似つかわしくない穏やかな瞳で、彼はリーゼの隣に立った。
その手には、叡力銃が握られている。
嵌めれているのは、赤い叡力カートリッジ。
フィルの理解を待つように、クラウスは一拍間を置いた。
そして、欠片も緊張を感じさせない所作で、胸元から白い布に包まれたものを取り出す。
叡力カートリッジよりは、少し大きい。
クラウスはそれをテーブルに置くと、布を解いた。
布の内側は、何かが擦れたように汚れている。
血だ。
「……これで、状況はわかって頂けたでしょうか?」
叡力兵器のサンプル。
赤紫の叡力を隠すように、溶管には乾いた血がこびり付いていた。
これは確か、ティントが。
リーゼと目が合う。
「…………お願いがあると、言ってましたよね」
彼女は、そのための人質か。
フィルが抵抗しなかったことに、多少なりとも安堵したのだろう。
クラウスは視線を落とした。
「ええ。私は、どうしても――」
フィルは手枷を持ち上げるようにして、テーブルの上のサンプルに手を伸ばした。
それを掴むことを、クラウスは止めない。
溶管の血の跡を、指先で強く捉える。
駆け抜けた感情を殺せたのは、きっとリーゼがいたからだ。
失敗は、出来ない。
少し身を乗り出すと、流石にレイの視線が手元に注がれるのがわかった。
次の動きを予想して、彼は半歩、踏み出す。
ほとんど同時に、掴んだサンプルを思い切り投げた。
クラウスが言いかけた言葉を、飲む。
「――ッ」
顔面目がけて飛んだそれを、レイは反射的に叩き落とす。
欲しかった、一瞬の隙だった。




