2、迎え人に引かれて
フィルさんは、命の恩人ですから。
クラウスは晴々とそう言って、あっさりと牢を開けた。
看守が微妙な顔をしつつも止めないところを見ると、各所に手は回してあるのだろう。
それが許されることなのかどうか、フィルには判断がつかない。
ただ、ここから出られるのなら、願ってもなかった。
まともに風も入って来ない狭っ苦しいところに押し込められているのは、なかなかに苦痛だ。
わざわざ迎えに来てくれたのが彼なら、とにかくこれ以上悪いことにはならないだろう。
「申し訳ありません。一応私の方でフィルさんを預かるという話なので、手枷は……」
クラウスは見慣れた砂避けのローブをフィルにかけた。
フードが目深に落ちて来ると、彼はまるで子どもにするようにフィルの手を引く。
「とにかく離宮までお連れしますね。さ、足元に気を付けて」
牢から離宮か。
段々、感覚が麻痺して来た。
公安施設の裏口には、大会でも見かけた白い制服の男たちが控えていた。
彼らに無言で急かされ、人目を避けるよう車に乗せられる。
久方ぶりの強い陽射しも、首都らしい雑多な空気も、味わう暇はない。
向かい合う座席に、クラウスが腰を下ろす。
とん、とドアが閉められると、レースの窓掛けが靡いた。
流石は、王族。
西ランス港までの定期輸送車とは比べものにならない。
「災難でしたね、フィルさん」
クラウスはするりと足を組んで、寛ぐ。
「そう、ですね。流石に、どうなることかと思いましたけど。本当に、助かりました」
頭を下げると、彼は「とんでもない」と首を振った。
「大会の最中、命を助けて頂いたのは私の方です。いずれきちんとしたお礼を、と思っていましたが、まさかこんなことになるとは……。報道で事件を知って、驚きました」
クラウスはそう言って、顔を曇らせる。
「貴方のことを知らない人々は、当然貴方がやったのだと思っているようですね」
それは、仕方がない。
ティントの一件で、議長と諍いになったことも、意図はともかく叡力銃を抜いたことも、確かに事実。
その日の内に議長が狙撃されたのだから、我ながら見事なスケープゴート振りだと思う。
「……すみません」
「何故謝るのですか?」
きょとんとされた。
「貴方は議長を撃っていない。何も気に病むことはありません」
「そ、うですけど、んなあっさり……」
色々とあるらしいが、クラウスはこの国の王子殿下だ。
一度巡り合わせで彼を助けたくらいで、こうも信頼されるとありがたいと言うよりは心配になる。
当人はにこにこしたまま、「知っていますか?」と窓の外を見た。
窓掛けの白の向こう、流れて行く風景はいつの間にか市街を抜けている。
首都に土地勘のないフィルには、どこをどう走っているのか見当も付かなかった。
ただ、緑が深い。
「ガーデニアでは砂海案内人たちが集まって、貴方の無罪を訴え運動を起こしているそうですよ」
「…………は?」
ガーデニアで、何?
ぽかんとしたフィルに、クラウスは静かに微笑んだ。
「中にはガーデニアニュースや叡力学会誌の関係者、それに一般の方々も参加しているとか。暴動などにはなっていないそうですが、ここ数日でかなり広がっています」
「……いや、それ、大袈裟じゃ」
ガーデニアニュースや叡力学会誌の関係者と言われれば、心当たりがないこともない。
案内人仲間にも、ごく一部フィルの無実を信じてくれそうな人がいることも確かだ。
けれど、それは運動が起こるほどの数とはどうしても思えない。
クラウスは逆に、不思議そうな顔をした。
「大袈裟? いいえ。少なくとも、市議会が真っ青になって事態の収拾に乗り出す程度の騒ぎにはなっているようです。GDUは公式に首都公安と対決の構えですし、ガーデニアニュースも独自に集めた情報から、貴方が不当に拘束されたのではないかと疑問を投げかけています」
彼はふっと言葉を区切って、
「ガーデニアは、もともとクラウンが治める地。砂海案内人たちの街ですから。人々も、やはり案内人贔屓なのでしょうね。勿論、これが『貴方』でなければ、また話は違ったのでしょうけれど」
「………んなことはないと」
フィルが首を振ると、クラウスは何故か切なそうに瞳を細めた。
「そんなことは、ありますよ。GDUの公開情報にも、貴方のタグにもそれは現れない。けれどこれこそ、フィルさん、貴方がガーデニアで築き上げて来たものではないのですか?」
「………」
「貴方は必要とされ、そして信頼されている。少なくとも、あれだけの人々が貴方を取り戻そうとするくらいには。本当に……、羨ましい限りです」
少しずつ小さくなった語尾は、寂しそうな笑みに消えた。
クラウスはフィルの躊躇を見透かしたように「すみません」と一言謝って、苦笑する。
そしてころりと明るい表情で、
「見えて来ましたよ。ほら」
子どもがするように、腰を浮かせて窓の外を指差した。
延々と続いた緑地の影の中、黄色みがかった白色の建物が見える。
離宮。
丸みを帯びた外観に、金と銀の装飾。
ガーデニアの駅より、一回り小さいだろうか。
車が近付くと、その装飾の類が異国の模様を描いていることがわかる。
豪奢ではなく、控えめな佇まいだ。
まるで離宮を隠すように、背の高い木々が梢を揺らしていた。
「母のため、陛下が建てたものです。母と私の二人には大き過ぎるのですが、王宮より遥かに安心して過ごせるところでもあります」
クラウスは、さて、と軽く膝を打った。
「少し休んで頂いて、それから、これからのことを考えなくてはいけませんね」
「……はい。えっと、後で通信をお借りしても良いですか?」
「ええ、勿論。お弟子さんとディナル先生も、さぞ心配されていることでしょう」
「心配てか……、怒られそ」
呟いたフィルに、クラウスはゆるりと首を振った。
「大丈夫ですよ。きっと、泣いて喜んでくれるのではないですか?」
そうだろうか。
ふっと指先が痺れるような気配。
別に、砂海で別れたわけでもないのに。
「――さあ、着きましたよ」
音も立てず、車が停まる。
白服の護衛がドアを開ける前に、クラウスは自ら車を降りてフィルの手を取った。




