20、やがて因果は廻り
彼が囮になったのだから、いざという時は身体を張って、ティントとルニアをガーデニアまで逃がそうと思っていた。
けれど。
トラムはゆっくりと速度を落とした。
抑揚のない、折り返しのアナウンス。
終点だ。
黙り込んでいたティントが、「着いたねー」とぽつり呟く。
「…はい」
夜の闇に浮かびあがる駅舎。
ガーデニアに、帰るんだ。
リーゼはぎゅっと拳を握った。
彼が出て行った後。
旧市街は、怖くなるほど静かになった。
実際、トラムの停車場も張り込まれていなかったし、運行も通常通り。
まるで、何事もなかったかのように。
それを「良かった」と思えるはずがない。
大丈夫。
彼の言葉を反芻するのは、何度目かわからない。
トラムを降りると、通りはぱたりと人気がなかった。
街路樹の枝で、街灯が揺れている。
「…行きましょう」
ルニアに声をかけられて、立ち止まっていたことに気付いた。
念のためリーゼが先行して踏み込んだ駅舎は、時間が時間だからだろう。
全く、人がいない。
がらんとした構内は静謐で、どこか虚ろだ。
壁の優しい白も床で美しい模様を描くタイルも、今朝と何も変わらないはずなのに。
「私、乗車券を買って来ます。目立たないところで、待っていて下さい」
ルニアがそう言って、辺りを窺いながら駆けて行く。
「…………」
リーゼは視線を上げて、溜息を堪えた。
金で装飾された太い柱に支えられ、緩やかに弧を描く天井。
こうして見ると、まるで王宮のようだ。
「リーゼ」
ティントが小さく警告して、すっと壁沿いに寄った。
その視線の先、駅舎に慌ただしく入って来た人影。
彼では、ない。
思わず身構えたリーゼは、すぐに緊張を解いた。
「……サナさん」
相変らず、落ち着いて登場は出来ないらしい。
彼は必死に視線を巡らせ、リーゼを見つけると凄い勢いで駆け寄って来た。
焦げ茶色の髪が、汗で額に張り付いている。
それを拭おうともせず、
「…おじょうさんっ、にいさんは?」
息を切らせて、問う。
「フィルさんは、まだ」
「まだ? 一緒じゃ、ねぇのか?」
「は、はい」
サナはふっと目元を押さえると、唐突に「くそッ」と怒鳴った。
床のタイルを、忌々しげに踏み付ける。
あまりの剣幕に、リーゼは痺れたように立ち尽くす。
「知り合いー?」
リーゼの半歩前に出て、ティントが怪訝な顔をした。
サナはティントを見て、「ああ」と呻く。
「…ディナル博士か。オレ、ガーデニアニュースのサナ・ジークってもんだ。こんなことになってなきゃ、訊きてぇことが山ほどあんだけどよー…」
こんなことになってなきゃ。
リーゼは思わず、胸元を押さえた。
サナは彼らしくもない、険しい表情を見せる。
落ち着いて聞けよ。
そう言って、リーゼの肩を軽く叩いた。
「バッシュ・アルカーナ議長が、狙撃された」
狙撃された。
真っ白になりかけた頭に、すとんと落ちて来た言葉。
上手く理解が出来ない。
「研究機関で、関係者たちと会見の打ち合せをしていた最中だと。叡力銃で狙撃されて、直撃は免れたそうだが、右肩を叡力弾が掠めて…。出血が酷く、意識も戻ってねぇらしい」
「それ、確か?」
ティントが聞いたことのない声で、確認する。
サナは、「オレもな」と乱暴に頭を掻いた。
「議長が自棄んなって事件でっちあげて、おたくら捕まえようとしてんのかと思ったんだけどよ。どうやら、ガチの事件らしい」
叡力銃で、狙撃。
議長が、意識不明。
んで本当に、兄さんやってないんだなー?
まどろみの中で聞いた声が、唐突に蘇る。
「待って下さい。じゃあ……」
「フィーくんが、犯人だと思われてるってわけだね」
リーゼが言えなかった事を、ティントが代わりに口にした。
サナはまるで自分が責められているかのように、居た堪れない表情をする。
そんなこと。
リーゼは強く首を振った。
「あるはずないですっ! だって、だって」
「それ、僕らが逃げてからの話でしょ? フィーくんがおじさんを撃つ理由はないよね。それに、本当にフィーくんがやったなら、おじさんは間違いなく即死してると思うけど」
彼が、本気で殺そうと思ったなら。
ティントの言葉に、リーゼは息を吸った。
「そうです! 大体、私たち、ずっと一緒にいたんですよ!」
「わかってる! わかってるっつの!」
サナは何度も頷いた。
「オレだってなあッ、あのにいさんが議長を撃ったなんて、思ってねぇよ!」
押し殺し切れない、掠れた声。
ただあまりに状況が悪い、とサナは食い縛る。
指先が、爪先が、冷たい。
リーゼは、縋るようにイヤホンに触れた。
「どっからかわかんねぇが、情報が一気に流れてる。にいさんの名まえも、旧市街に隠れてるっつう話も。異常な速さだ。普通じゃねえ」
「…誰かが、フィーくんの情報を公安に流してるってこと?」
「そこまでは、わかんねぇよ。その場にいた研究者連中が、それっぽい人影を見たとか言ってるらしいけどなぁ」
サナの声がすぅっと遠くなる。
本当にやってないんだな、と彼は訊かれていた。
つまりそれは。
「フィルさん、知ってたんだ」
公安の目的が自分だと、知っていた。
知っていて、「撹乱するから」とリーゼたちだけガーデニアに帰そうとしたのか。
リーゼの呟きに、二人は沈黙する。
全く、と呆れたのはティントだ。
「やっぱりねー。何か怪しいと思ったんだー」
「いや…、こうなったら、にいさんの判断はむしろ不幸中の幸いだぜ」
サナは、ちらと駅舎の入口を振り返ってから、声を顰める。
「拘束されてもすぐにどうにかされちまう訳じゃない。おたくらが上手いこと状況を説明すりゃあ、にいさんの疑いは晴れるだろ。でもな、さっきも言ったように今回の件、ちと普通じゃねぇ」
首都じゃ、駄目だ。
サナは「帰れ」と言う。
「ガーデニアに帰って、そこでにいさんの弁護に動いた方が良い。今、首都の公安に訴え出ても握り潰されちまうどころか、一緒に捕まりかねないぞ」
「………何で」
「…んな事件、滅多にねぇからな。公安の上層部がパニクってんだとは思うけど」
軽い足音を立てて、ルニアが戻って来る。
彼女はサナに気付き、それからリーゼたちの表情を見て、顔を曇らせた。
「……何かあったんですか?」
「おう…、いや、詳しいことは列車ん中でおじょうさんたちに」
言いかけて、気付いたサナが慌ててこちらに手を伸ばす。
その手を掻い潜って、リーゼは走り出していた。
良くわからない。
ただ、夢中だった。
「リーゼ!」
ティントの声にも、足を止められない。
駅舎を飛び出すと、通りをひたすら駆けた。




