16、禍殃の子
外していた携帯通信端末を付けると、こちらから通信を入れる前にリーゼの声がした。
何度も通信を入れていたらしい。
悲愴な声で、『フィルさん、大丈夫ですか? 拷問とかされてません?』と訊かれた時には、申し訳ないが笑ってしまった。
簡単に状況を説明して、二人で何とか脱出すると伝えると、意外にもアースト社の開発部長がまだ動いてくれると言う。
とっくに騒ぎになってしまったのに。
『サナさんが、今回の件は怪し過ぎるって、珍しく真剣に言っていました。すぐ同僚の方たちと合流して、絶対すっぱ抜いてやるって…。だからかもしれません』
向こうが悪いなら、少し融通を効かせてあげても良い。
そんなところか。
けれど、脱出経路が使えるのは正直ありがたい。
通信を終えると、唐突にティントが手をぽんと打った。
「待った、フィーくん。夜逃げの前にやんなきゃいけないことがあったー」
「…お前さ、やっぱ言語勉強し直せよ」
何故、夜逃げ?
ティントは「困ったなー」と言いつつ、面白がるような顔をした。
緊張感のない奴。
このままここにいて、会見の場に引っ張り出されたらどうしようもないのに。
「あれ、持ってかないと」
「あれ?」
ティントは両手で長方形を作って見せた。
「サンプルー」
討論の場で見た赤紫が、脳裡を掠める。
フィルは頭痛すらしてきた気がして、項垂れた。
「……一気に難易度上がったな」
「うっかりぽんと忘れちゃって。いやー、でもこういうのお約束じゃない?」
「お前、それ言える立場か? 先に持って来とけよ」
「だって一緒に逃げることになるとは……、まあちょっと思ってたけどさ」
思ってたんじゃねぇか。
大丈夫、とティントは自信満々に頷いた。
ちら、と窓辺を振り返ると、外はすでに薄暗い。
重い雲が夕陽を遮る、色のない黄昏時。
「もう討論も終わったでしょ。サンプルもいつものとこに戻ってるだろーし、さーっと行って、ぱーっと取ってくれば良いだけだって」
「…へえ」
もう突っ込むのも疲れた。
「んじゃ、れっつごー!」
ティントは全く気にもしないで、研究室の扉を開けた。
第二叡力開発研究所の地下一階。
ティントの研究室からは、出たところの階段を下りてすぐだった。
さーっと行って、というのも、あながち誇張ではない。
実験室が集まるフロアなのだろう。
機材搬入のためか、嫌に広い廊下。
その廊下に面した部屋からは人の気配がするが、話し声はほとんど聴こえない。
静かだ。
「ここー」
ティントは一室の前で立ち止まり暗証番号を打ち込んで、扉を開けた。
ふ、と砂の匂いが掠める。
ティントが扉を閉めると、かちゃんとロックの音が響いた。
暗い。
部屋の中央に、装置の灯りだけが点滅している。
えーっと、と言いながら、ティントが壁際を探り探り歩く。
「これ! あ、点かない」
「…何やってんの?」
「ここ叡力扱うからさー、照明とか機器が駄目になんないように、特殊パネルで一括管理してるんだけど」
見えないー、と嘆く。
「今はカートリッジレベルの実験じゃなからさー、停電とかしょっちゅうなんだよ。お隣さんにも怒られたりしてさ」
「そりゃ、迷惑な話だな」
ティントの手元を見ると、確かに壁にはめ込まれたパネルにごちゃごちゃとスイッチ類が集まっている。
「どれ?」
「見える? さっすがフィーくん。人間離れしてるー。えっとね、右から三番目の…、一番下?」
「………」
右から三番目の一番下に、スイッチはないのですが。
フィルは白衣を払って、ベルトに手をやった。
「うわお」
叡力ライトを点けると、変な声を上げてティントが驚く。
「やだな、フィーくん。白衣の下にそんなの仕込んでたの!? まさかまさか叡力銃も持って来てる?」
「良いから点けろって」
「うーい」
かちん、と良い音がして、部屋が明るくなる。
ティントの研究室より、遙かに広い。
計測用なのか、情報端末が幾つも並び、コードが床を這っている。
「じゃじゃーんっ! あれが僕渾身のサンプルでーす」
実験室の中央。
見慣れない機器に繋がれた例のサンプルがある。
赤紫の叡力に、銀色の特殊フレーム。
叡力銃で扱える代物でないことは、見ただけでわかる。
「凄いでしょー」
「……あのさ、何つうか、俺が言うのも何だけど。法には触れてねぇんだよな?」
「えっ! 学会規約はともかく、法には触れてないよ!?」
何でそんなこと言うのさー、とティントは不貞腐れる。
何でって、ぱっと見ると怪しい組織の研究所ですよ。
ティントはコードを避けながら、サンプルに近付く。
「あのね、ちょっと規模は違うけどさ、君の叡力カートリッジだって、こんな感じで作ってるんだよ?」
「へぇ」
「ほら、大会用の叡力カートリッジ。あれもここで作ったんだからー」
君の相棒たちと一緒だよ。
そう言って、ひょいとサンプルを機器から外した。
ティントの手の中で、赤紫は大人しく揺れる。
彼はそのまま、端末脇に設置されていた通信機を手に取った。
「あ、お疲れー。え? ああ、その関係でちょっとね。僕さ、抜けることにしたから。うん、本気ー。迎えも来てるし、突然で悪いけどさ、サンプル持ってくからー」
「っに、報告してんだっ!」
何? 本当に馬鹿なの?
ティントの手から通信機をひったくる。
彼は、きょとんとフィルを見た。
「え? だって、断わりもなく出てったら、フィーくん誘拐犯扱いじゃない?」
「直に断わってどうする!? 置き手紙とかあるだろ!」
「あ、そっか」
「そっか!?」
ティントはサンプルを手の中でくるくると回す。
それは叡力兵器の卵だろうに。
「でも、僕別に監禁されてたわけじゃないしさー。一応、自分の意志でここにいたんだよ? 抜けるのだって自由でしょ。これだって、僕一人で作ったんだし」
「…危機感足んねぇな、ったく」
それは「今まで」の話だろう。
ばたばたと足音が聞こえる。
流石、早い。
いや、この事態も想定されていたのだろう。
フィルはさっと視線を巡らせた。
扉は一つ。
窓は、勿論ない。
突破するしかない。
「ディナル博士」
実験室に乗り込んで来たのは、警備員たちと議長だった。




