13、平行線
懇切丁寧にご案内されたのは、そう広くもない研究室だった。
メインの大きなデスクに、一回り小さなデスクが少し離れて置かれている。
壁際の本棚はすでにキャパオーバー。
資料やら本やら、良く判らない装置の成れの果てが、所構わず散乱していた。
間違いなく、ティントが使っているのだろう。
椅子の上に絶妙なバランスで積まれた本を床に置いて、フィルは腰を下ろした。
薄いカーテンの引かれた窓辺には、何故かぽつんとティーポットが置かれている。
何あれ、インテリア?
指の痕がついた手首を擦りながら、フィルは溜息を吐いた。
「ディナル博士は今回の政策の要。あの発想や着眼点は凄まじいの一言に尽きるな」
確かにこれは凄まじい。
じゃなくて。
「…議長さん、討論はいいわけ?」
入口の扉を背に、アルカーナ議長は立ったままフィルを見下ろした。
やや右側に引き攣った表情は、底知れないというより感情が抜け落ちたように見える。
「あのレベルになると、流石に私もついて行けなくてな。政策提唱者として顔は出したが、いなくても彼らは困りもしないだろう」
そう言って、微妙に足の置き場がない護衛を「外で待っていなさい」と追い出す。
護衛はフィルを一瞥して、指示に従った。
「………」
「それより、君の事情を聞く方が重要だろうと思ってね」
私に用だろう、と議長はフィルのすぐ脇に立つ。
フィルは黙って、彼を見上げた。
漠角の集団が西ランス港に押し寄せた異常事態。
あれが、砂海再開発に連なる実験の一端。
誰の発案だか知らないが、この人が指揮を執っていたことは確かだろう。
呼び寄せても害の少ない漠角をわざわざ選んで、実験を繰り返していたというわけか。
腹が立つ。
「アンタに用があって来た訳じゃなかったんだけど」
「おや、GDUに命じられて来たのだろう?」
「んなこと言った覚えねぇな。それとも、案内人に乗り込まれる心当たり、あんの?」
心当たりは充分にあるだろう。
GDUが事態を把握していたら、1stを派遣していてもおかしくはない。
議長は笑みを作ったまま、何も言わなかった。
会場にいた研究者たちとは違い、その瞳に罪悪は見て取れない。
フィルは議長を睨んだ。
「…漠角の誘導実験、ね。派手にやってくれんじゃん」
「そうだな…。素晴らしい成果だろう」
「成果? GDUに事前説明もせずに、あの様で? 責任取れんのかよ」
本気で言っているのだろうか。
あれだけの事態。
何が起こっても、不思議ではなかったのに。
「アンタに用があってここまで来たわけじゃねぇけど、砂海案内人として聞かなかったふりは出来ない。GDUに、報告はさせてもらう」
返って来たのは、呆れたような吐息だった。
議長は腰の辺りで腕を組み、なかなかの足捌きで窓辺へと向かった。
爪先に当たった本の山が、微かに音を立てて崩れる。
「GDUに報告、か。だが、それで何が出来ると言うのだね」
「…は?」
「そもそも、GDUはガーデニアの統治機関の一部。一体、何の権限がある? 誰かもわからないクラウンに、何の力があると言うのだ」
議長は振り返る。
どこか侮蔑を孕んだ優しい声で、「クラウンは、ガーデニアの王ではないのだよ」と諭すよう言う。
今更。
そんなことは、言われなくてもわかっている。
「……砂海案内人にはわからないだろうがね、砂海を抱え続ければ、この国はいずれ他国に後れを取る。国内を網羅する鉄路を整備出来ていないなど、後進国だと触れ回っているようなものだ」
我々は、もっと早くに動き出すべきだった。
そう深い悔恨を滲ませて、彼は呟く。
「全ては、フィリランセスが、他国に侵されない強国であるために。君とは、残念ながら背負っているものが違う」
背負っているもの。
そう、砂海案内人が背負っているものは依頼人の命だけ。
それだけだ。
「それで?」
フィルの素っ気ない返答に、議長は呆気に取られたように眼を剥いた。
仰る通り。
フィルは、ただの砂海案内人。
師匠と同じように、あの砂海で生きて、いつかあそこで死ぬ。
ただそれだけの人間に、ご大層な大義は正直理解出来ない。
「GDUに権限がないとか、砂海を抱えてっと不利益だとか、そーいう話は議会でやれよ」
「…君は何もわかっていないな」
「わかってない? わかってないのは、アンタの方だろ」
フィルは笑った。
「権限のある無しじゃない。どんなに落ちぶれても、砂海に関わることはGDUが一番情報を持ってる。砂海に手を出すのに、GDUを利用しないのはただの馬鹿だろ」
「…………」
わかっていないのだろう。
砂海が、どんなところなのか。
「…砂海じゃ、一匹砂獣を殺してキャラバンが全滅したなんて話、ざらにある。あれだけの数の漠角を誘い出して、西ランス港が壊滅するかもしれないって、考えなかったのか?」
「漠角という砂獣は人を滅多に襲わない。実際、あの実験で死傷者は出なかったのだよ」
何を、偉そうに。
フィルは息を吐いた。
そうしないと、思わず手が出そうだ。
「違う。偶然、死傷者を出さずに済んだ。それだけだ」
漠角とて、砂獣。
子を守るため、自らの命を守るため、人に牙を剥くこともある。
そして彼らがそうしなくても、人が彼らを傷つけ、その血が惨劇の引き金になることもあるのだ。
「もう一度、同じことを繰り返したいのか? 砂海で人間の常識は通用しない。そんなこともう思い知ってるだろ?」
あの粛清で。
生半可な方法では、ただ死が積み重なるだけだと。
「知っているとも」
重く、彼は答える。
それだけは痛みを堪えるように、酷く顔を歪めた。
フィルは座ったまま、手足を少し伸ばした。
知ってた?
問い返した声は、自分でも驚くほど鋭利に響く。
「…今の時期、漠角たちが子を連れていると? 万が一の時、西ランス港の人々が逃げようもないことを? ああ、そう。知ってたのか」
知っていたのなら、誘導実験など出来る筈がない。
議長は、無言のままフィルに歩み寄る。
どん、とデスクについた手は、小刻みに震えていた。
「…私に、GDUに頭を下げろとでも言うつもりか? 頭を下げて、協力を乞えと?」
「必要ならそうすべきだ。それをしなかったのは、ただの怠慢だろ。その程度の覚悟で、砂海に手を出すつもりだったのか? 笑わせんな」
ぐっと胸倉を掴まれた。
思いがけない強い力で、椅子から腰が浮く。
それでも、フィルは抵抗をしなかった。
怖いおじさんには慣れっこだ。
それに恐怖を覚える可愛げは、フィルにはない。
この程度か。
ただ、淡々とそう思った。
「何してんの?」
咎める一声。
視線を上げた議長の顔面に、物凄い勢いで本が当たった。




