9、晩餐
ちょっと外出てくる。
そう言って彼は席を立つと、海へと突き出したバルコニーに向かった。
海風の強い今宵は、誰もいない露台。
外灯の光が届かないところまで、行かないで欲しい。
いつになく気だるげな背中を、リーゼは温い店内からじっと見つめる。
「大丈夫よ。本当に弱い訳じゃないから」
磨き上げられたワイングラスを傾けて、ゲルドはうっとりと息を吐いた。
どきりとするような優雅な仕草だが、空にしたボトルは三本目。
私の酒が飲めないとでも?
ええ、良いのよぉ、別に。
妙に有無を言わせぬ声音は、女性相手に申し訳ないが間違いなく、ドスが効いていた。
脅された彼が渋々付き合ったのは、グラス二杯まで。
ほぼ、彼女が飲み干している。
「ていうか、ただのトラウマよ。楽しみ方を覚えれば、良いお相手になってくれそうなのにね」
「トラウマ、ですか?」
リーゼは真っ白なテーブルクロスに注意しながら、名物だと言う海鮮のスープを口に運ぶ。
ゲルドが連れて来てくれたのは、波打ち際のお洒落なレストランだ。
流石は、港。
新鮮な魚介を使ったスープは特別凝った盛り付けではないけれど、ただ純粋に、美味しい。
ごろごろ入った魚の身をスプーンでそっと崩す。
何度目かわからない溜息は、これがここでしか食べられないと聞いているから。
ゲルドは「気に入ってくれたみたいで嬉しいわ」と微笑む。
「この店、じいさんのお気に入りでね。アタシも、西ランス港に来るとつい寄っちゃうの」
「そうなんですか…。確かに、これははまっちゃいますね」
「でしょ? でもこの店、あの子にとっては割と地雷なのよ」
「トラウマの話、ですか?」
リーゼはバルコニーに視線をやる。
まだ、海を見ている。
別に顔色も悪くなかったけれど、本当に大丈夫なのだろうか。
同じように彼の背中を見ていたゲルドが、グラスを軽く掲げた。
「飲ませたのよ」
「はい?」
「ここの、ワイン」
ゲルドの眼が弧を描いた。
悪い、笑み。
「あの子が、あの人にくっ付いて修行してた頃だから…、タグも付いてなかったんじゃないかしら」
ちょっと待って。
リーゼは魚の身をほぐす手を止めた。
「え…、それ、フィルさん幾つですか?」
「あんまり憶えてないけど、今のアナタよりずっと年下だったかしらね」
「ですよね!? フィルさん、タグ付いたの十三歳でしょう? そんな、子どもに?」
ゲルドはひょいっと肩を竦めた。
「アタシも、若かったしぃ」
「それで済みます?」
「もうっ、怒んないで。その時、じいさんにもあの人、フィルの師匠にも散々叱られたんだからっ! ちゃんと反省して、アナタには勧めてないじゃない」
今日のような案内の終わりに、ゲルドの祖父とフィルの師匠は良くこうして夕食を共にしたらしい。
大人が世間話で盛り上がる中、ゲルドはどう隙を見たのか。
まだ子どもだったフィルに、ワインを飲ませた。
「果物のジュースよって渡したの。良い匂いするじゃない? あの子、ころっと騙されちゃって」
気持ち悪いと戻してしまわなければ、実際どうなっていたかわからない。
その後は頭痛に苦しんだと言う重いオマケつき。
「トラウマにもなりますよ」
「そうよねぇ…。あの子、磁気酔い、頭痛くなるじゃない? だから混乱したんでしょうね。尚更傷が深かったみたいで。まあ、あの子自身はあんまり憶えてないみたいなんだけど」
「そうよねぇ、じゃないです」
思わずゲルドを睨むと、彼女は唇を濡らすようにワインを呷った。
「ごめんなさい。でも、ちゃんと動機はあったのよ?」
「子どもにワイン飲ませて良い理由なんて、ありませんよ」
「そうなんだけど…、でも、好きな人取られたら、ちょっと意地悪したくなっちゃうじゃない?」
「だから、そんなの理由に」
好きな人?
はたと瞬くと、ゲルドは瞳を伏せた。
嫌に整った睫毛が、影を落とす。
「初恋で、ずーっと好きだったの。あの人、フィルの師匠だった人のこと」
「え」
「凄く、格好良い人だったのよ? いつだって何てことないって涼しい顔してて、砂獣を斃す時なんて、息が詰まるほど素敵で」
「フィルさんの、お師匠さん」
彼は話してくれているようで、本当はあまりその人について話してくれない。
その人に拾われたこと、その人がもう亡くなっていること。
リーゼが知っていることは、とても少ない。
「家族を砂海で亡くしたらしいけど、だからかしら、案内人としてやっていけるのかしらってくらい、優しかった。アタシのことも、ちゃんと、ゲルドちゃんって、呼んでくれたわ」
だから、とゲルドは拗ねたようにそっぽを向いて見せた。
「子どもを拾って、家族に迎えたって聞いて何か悔しくて。挙句、その子が案内人の修行してるなんて知ったら、即敵認定よ」
元々、叶う恋じゃなかったのにね、と彼女は寂しそうに笑う。
「…その方は」
「そう、死んじゃった」
咽喉が詰まるような錯覚に、リーゼは慌てて息を吸った。
「馬鹿みたいに、優し過ぎたのよ、あの人は。アタシたちが、あの子が、どれだけ悲しむか、わかってたのかしら」
「その、砂海で、ですよね?」
「あの子ったら、話してないのね。あの人、『粛清』でね」
粛清。
一瞬、強く抱き抱えられた感覚が蘇る。
手が震えた。
銀のスプーンが、白いスープ皿に当たる。
ゲルドは遠い瞳をして、微かな音を聞き逃してくれた。
「ガーデニアの工業区が砂に飲まれて、たくさんの人が、砂海に流された。街の中にも数え切れないほど砂獣が入り込んで、もう助けに行けるような状況じゃなかったはずよ」
でもあの人は、それを見捨てられなかった。
労わるような、呆れたような、どこか醒めない熱情を孕んだ声。
八年前、砂海で。
そう彼が言った時、何故気が付かなかったのだろう。
「あの人までどうして砂に飲まれたのかわからないけど、あの人にどうしようもなかったのなら、本当にどうしようもなかったんでしょうね」
「砂に…、じゃ、生存が…、たった一人生きていると確認されたのは」
彼女はあっさりと頷いた。
ああ、それも知らないわよね、と。
「って、偉そうなこと言えないわよね。私も、結局全部後で知ったの」
ゲルドは唐突に、静かな表情を崩す。
ユニオンの公式発表で、犠牲者の中にその人の名を見つけたこと。
衝動のままに、まだ混乱の最中にあったガーデニアまで駆け付けたこと。
そこまで話して、ああ、と彼女は嘆きにも似た吐息を漏らした。
「馬鹿よね。あの子に当たり散らしたって、しょうがないのに。一緒に、泣いてあげれば、良かったのに」
「…………」
最低、とその人はくしゃりと顔を歪めた。
「酷いことしてばっかりね、アタシ」
慰めなんて、とても口に出来ない。
白い店内の談笑が、乾いて聞こえる。
酷い、と思った。
同じくらいその悲しみを、尊く、思った。
ゲルドは自嘲めいた微笑みを浮かべる。
「…ごめんね。せっかくのスープ、冷めちゃうわ」
ああ、何か、言わなくちゃ。
リーゼは奥歯を噛む。
見当違いな台詞で彼女を傷付けるくらいなら、この沈黙で終わりにした方が、きっと良いけれど。
でも。
「フィルさんは、……嫌いな人の依頼を受けるほど、器用な人じゃないと思います」
ゲルドはふぅっと柔らかく表情を崩す。
「そうかしら。でもあの子、あんな顔して結構嘘吐きよ?」
「嘘吐きでも、一緒に砂海を歩けないって判断したら、フィルさんは依頼を断わります」
「そう、ね。あの子は、あの人ほどお人好しじゃないものね」
テーブルに肘をついて、ゲルドは少し身を乗り出した。
バルコニーから、彼が戻って来る。
その前に、慌ただしく言葉が続く。
「ねえ、リーゼちゃん。フィルが、どんな嘘吐いてても、隣で、当たり前みたいな顔で、弟子をしててくれる?」
「はい」
ただ、頷く。
言われなくても、やっとあの人の隣に立てたのだから。
それは、その役目だけは、誰にも譲れない。
ゲルドはやっと憂いの薄れた顔で、笑った。
「約束ね」
誓いを求める声は、やけに低く重く響いた。




