5、夕立が過ぎるまで
とんでもなく、厄介なことになりましたとさ。
「…上がらせてもらうよ」
返事を待たずに、その人はずかずかと部屋に上がり込んだ。
ああ、頭が痛い。
ついでに、眠い。
フィルはやっと「どうぞ」と遅い返答をして、額を押さえた。
月が変わって、ぐっと気温が上がった。
ガーデニアの夏は、とにかく暑い。
湿気とは無縁だから過ごしやすいという人もいるが、案内人にとっては決して仕事がしやすい気候ではない。
砂獣に磁気酔い。
ただでさえ盛り沢山の旅路に暑さが加わると、面白いように客が体調を崩す。
まあ、今は客ではなくフィル自身が面白いほど絶不調な訳だが。
心配症を拗らせたリーゼがせっせと世話を焼きに来るのが申し訳なくて、何とか休暇を言い渡したのが昨日。
今日は世の中も休日。
来客があるとは到底思っていなかったのに。
小さなテーブルを挟んで目が合うと、その人は敵意を込めてフィルを睨んだ。
すみません、息して良いですか?
それさえ許可が要りそうな、圧迫感だ。
「こうして話をするのは、初めてだな。いつも、息子と、娘が世話になっている」
「いえ、こちらこそ」
長い沈黙の末、彼は抑揚なく辞令的に言った。
白いものが混じった枯色の髪は、ティントと同じ。
こちらを値踏みするような無遠慮な瞳も、見慣れた鉛色だ。
何だかんだ言っても、血が繋がっているのだと感じさせる。
押しかけて来た客は、ティントとリーゼの父。
フィルも一応小さい頃から知ってはいるが、良い感情を持たれていないことは確かだ。
砂海案内人なんてものは、ガーデニア市議さんにとっては「野蛮」の代名詞みたいなものだろう。
それなのに、わざわざお忍びでフィルのところまで来たと言うのだから相当の用事か。
大体、想像はつくけれど。
「……………」
開けっぱなしの小さな窓から、風が吹き込む。
熱気を孕んだ砂の匂い。
彼は腕組みをして、鼻を鳴らした。
何か言いたげに、テーブルの上に視線をやって眉を動かす。
フィルはその目線をぼんやりと追って、ようやく意図に気付く。
「あ、すみません。お茶、用意しますね。……えっと、先生」
悩んだ末の呼称は、正しかったようだ。
やや満足げに頷いた彼に、フィルは気付かれないよう溜息を吐いた。
ティントとの付き合いは黙認されているようだが、リーゼの弟子入りに関しては業を煮やしたのだろう。
彼女が最初に押しかけて来た時、親に筋は通すよう言ったが、その後はどうなっているのやら。
真面目な彼女のことだから、近況くらいは報告していそうだが。
「私がこうして足を運んだ理由は、わかっているようだな」
「…お嬢さんのこと、ですよね?」
出された飲み物をぐうっと一気に飲み干して、議員先生は頷く。
その隙に、フィルは欠伸を噛み殺した。
ちょっと前までそれこそ一生分寝るくらいの勢いで寝ていたが、今のところ一日に二、三度耐え難い眠気に襲われる程度に治まって来ている。
が、どんぴしゃで、眠い。
フィルは眠気を払おうと、眼を押さえて頭を振った。
それを彼は目敏く見咎める。
「随分と、だるそうだ。私と話すのは不都合かな?」
「いえ、眠いだけです」
「…何?」
あーあ、何で今日リーゼにお休みを言い渡したんだろ。
日頃の行いですかね。
フィルはなるべく殊勝に、「仕事関係で、少しありまして。失礼しました」と謝った。
彼は不愉快そうに眼を怒らせて、足を組んだ。
爪先が苛立ちのためか、ゆらゆらと揺れる。
「単刀直入に訊こう。君、リーゼとはどういう関係だ」
娘の弟子入りは認めない。
今すぐ家に連れて帰る。
身構えていたフィルは、予想とは違う問いかけに用意していた答えを飲み込んだ。
関係?
フィルは呆気に取られながら答える。
「一応、師弟ですが」
「そうじゃない!」
「は?」
そうじゃなければ、なんと答えれば。
回らない頭をフル回転させるが、パパさんが求めている答えが全くわからない。
要領を得ないフィルに、目に見えて彼のボルテージが上がって行く。
「…君はっ、リーゼを、どう思っているのか、と訊いてるんだ!」
おー、ヒートアップして来た。
腰を浮かせた彼から、身体を引きつつフィルは、「どうって」と困惑する。
「どうとも思ってないのか!?」
「大事な、弟子です。どうとも思ってないわけない」
どん、と音がするほど乱暴に椅子に腰を下ろした彼は、爪で小刻みにテーブルを叩く。
まだ納得していないな、これは。
彼は興奮を抑えるように荒く息を吐いた。
ルレンとは正反対の、知性が勝る顔立ちに影が差す。
「リーゼから聞いているだろうが、私は、あの子とは血が繋がっていない。だが、今の妻と一緒になる時、あの子も必ず幸せにすると誓ったのだ」
「……」
「私は、『父親』として、確認に来ている。もう一度訊くぞ。リーゼのことを、どう思っているんだ」
娘を想えばこその気迫。
そう思えば感動しないこともないが、フィルは返答次第ではこの距離で殴られそうな予感だ。
眠いとか言っている場合じゃない。
「…すみません。その返答の前に、確認させてもらっても良いですか? 先生」
先生、と呼ばれて、彼は渋々承諾する。
爪先はまだ揺れているが、手はテーブルを叩くのを止めて腕組みに戻った。
「先生は、お嬢さんが砂海案内人として修行していることに関して、お話に来られたんですよね?」
「それについても私は納得していないが、あの子のことだ。私が何を言っても聞きやしないだろう」
そういうところばかり兄に似るのはどういうことかね、と彼はぼやく。
天邪鬼な人だ。
言葉ほど呆れていないのは、柔らかくなった目尻に見て取れる。
先生も、悪い人ではないんだけど。
かつて師匠が困ったようにそう評したのも、今ならわかる。
ティントと折り合いが悪いのは事実だが、息子のことも娘のことも、決して「どうでも良い」と思っているわけではないのだ。
ただ、やり方が合っているのかは、フィルには判断出来ない。
「…砂海科を出てからのことは、手紙で聞いている。今は、ティントのところに転がり込んでいることも」
「はあ」
「私は、最初から反対だった。砂海案内人なんて仕事は、あの子には合わない。勉強も出来る、それこそ学校の先生でもすれば良いものを」
「そればかりは、彼女が決めることですから」
「………」
また、睨まれた。
けれどそこだけは、はっきりとしておかなければ。
彼女の修行実態についてとやかく言われるのは、仕方がない。
給料が少ないとか、装備支給が甘いとか。
それは、フィルの責任だ。
ただ彼女の選択を覆す権利は、フィルにもない。
「ご心配は、承知の上です。ですが、それは本人に話をした方がよろしいかと」
大体、説得には失敗した口だ。
止められるものなら、弟子入りを許可したりはしない。
短く息を吐いて、父親は首を振った。
「言っても聞かないから困る。だが、今回はその件ではないんだよ」
「……はい?」
あれ、違った?
今度こそ、フィルは首を傾げる。
いい加減、押し殺していた眠気が反撃に出そうな気配。
さっさと追い返して横になりたい。
フィルの顔色に気付かず、彼は身を乗り出す。
眉間の皺が、更に深くなる。
「ティントから、……聞いた。私は、知っているんだ」
おまえの秘密を知っている、的な?
いやいや。
ティントから聞いたと言うのだから、あのことではないだろう。
「何を、ですか?」
フィルの返答に一瞬拍子抜けた表情を見せた彼は、実に言いづらそうに続けた。
「……………寝たんだろう? あの子と」
「………………」
寝た?
リーゼと?
ふっと、背中にあたたかさが蘇って、フィルは「ああ」と頷いた。
「寝ましたね」
「寝ましたねって、君な!」
激昂する父親に、フィルは慌てて両手を上げた。
「すみません。確かに年頃の娘さんですし、軽率でした」
「軽率で済む話かッ!! ど、どう責任取るつもりだ! いや、そもそも、あの子は同意の上か!? 無理やりなんてことは、ないだろうなッ! あぁ? どうなんだね!」
「とにかく眠くて、止める暇もなくて! って、無理やり!?」
確かに同じベッドで寝たのは倫理的にどうかとも思うけれど。
フィルもリーゼも、眠かったから寝た。
それだけだ。
「無理やり」とか。
とんでもない勘違いをされている。
まじまじと見つめた彼女の父は、興奮の余りフィルとの会話の齟齬に気付いていないようだ。
子どものことになると、親は怖い。
「ちょっと、待って下さい。何か、」
「おも、表へ、出ろ!!」
真っ赤な顔で、舌を噛みながら彼は叫んだ。
いよいよ、こうなると誤解を解くどころの話じゃない。
胸倉を掴もうとした手を、気付かれない程度に往なして身体を引く。
「ティント…は、ややこしくなんな。リーゼに、お嬢さんに確認してください」
テーブル越しに拳を振り上げた議員先生に、フィルはさっと携帯通信端末を外す。
イヤホンも一緒に放ると、反射的にそれを受け取った彼は口の端を震わせる。
「確認だと」
「そういう『寝た』では、ないんです。多分、ティントが」
適当な言い方をしたのだろう。
くそ、学問に従事する人間なら言語は正しく扱え!
心の中で一喝して、けれど親の手前言葉を濁す。
「とにかく、それなら即本人に通じますから」
「休日に、即本人に通じるような手段を持っているわけか」
「あの、案内人の携帯通信端末って、そういうもんですから」
フィルに言われた通り、彼は渋々携帯通信端末を弄り出した。
リーゼに直接確認しろ、と言われて、多少落ち着いたようだ。
まあ、後はあの子が上手く説明をしてくれるだろう。
ティントに面差しの良く似たその人に、フィルはふと、問いかける。
「…案内人になるって話の方は、いいんですか?」
あ、藪蛇だったか?
今回はその件ではない、と言っていたから、そのうちまた怒鳴り込む予定なのだろうか。
慣れない様子で端末本体を操作していた父親は、「納得はしていないと言っただろう」と言いつつ、恐る恐るイヤホンを耳に当てた。
「…だが、親が納得しなくてもさっさと進んでしまうのが子どもだ。君には、まだわからないだろうがね」
微かに漏れ聴こえる、コール音。
彼はフィルをちらと見て、不思議と自慢げな笑みを浮かべた。
ティントは、嫌がるだろうけれど。
この親父さんは、ある意味凄い人かもしれない。
何と言っても。
ティントと、リーゼ。
あの二人の「父」なのだから。
「子どもの我儘に振り回されるのは、親の特権だよ。いつまで振り回してくれるか、わからないがね」
その人は一瞬、寂しそうな表情をして。
応答した娘に間髪入れず、
「リーゼか、私だ。お前、修行先の男と不適切な関係になっているというのは、本当か?」
本当に、凄い人だ。
いくらなんでも、それはNGでしょ、パパさん。
これはもう一波乱ありそうだと、フィルは頭を抱えた。




