第26話 魔法にかけられた王子 1
「まっ、待て……」
レオンハルトがそう言った時には遅く、ぐるぐると視界がまわる。さっきまでの視線の高さとは全然違って床が目の前に迫り、手を見ると毛むくじゃら、後ろを振り返ると長い尻尾が見えた。レオンハルトは慌てて隣の部屋に置かれた鏡台に駆けより、自分の姿を映す。
銀色の艶やかな毛皮、小柄ですらっとした体系、優美な長い尻尾……どうやら魔法で猫にされてしまったようだ。毛皮が銀色なのは、元々の髪色が銀色だからだろうか。
「なんてことだ……」
そう呟いて、猫になっても人の言葉を喋れることに少し安堵する。試しに鳴いてみると。
「ニャーオ」
猫の鳴き声も出るようだ。
迂闊にも魔法使いに魔法をかけられ、猫にされてしまうなんて情けなさすぎる。レオンハルトは自分に失望し、惚けたように鏡台に座り込む。
「どうやったら、元の姿に戻るだろうか……。あの魔法使い、代価はいらないと言っていたがなにか魂胆があるはずだ。どうにか自力で戻らなければ……」
そうは考えたものの、自分ではどうしようもないことはわかっている。王族お抱えの魔導師に相談してみようか、そう思って側近のアウトゥルを呼ぼうとした時、隣室から彼の声が聞こえる。
「おっ、王子が! レオンハルト様が行方不明になってしまった!」
そう叫んで、アウトゥルは部屋の外に駈け出して行ってしまった。
「待てっ……」
その声はだれにも聞こえず、しばらくしてアウトゥルが数人の侍従と護衛兵を連れて部屋に入って来た。
「さっきまで、確かにレオンハルト様はこのお部屋にいらしたんだよ」
アウトゥルの言葉に、第一王子付き侍従長のフェルディナントが眉間に皺を刻んで渋い声で言う。
「アウトゥル、お前が付いていながらなぜ、王子の行方を見ていなかったのだ?」
「王妃様とお話されていてお疲れだろうと思って、隣室に控えていたんだ。ああー、レオンハルト様、どこに行ってしまったんだぁ!」
アウトゥルが頭を抱え、膝を床について嘆く。
「まさか! 花嫁探しの舞踏会が嫌でどこかに行ってしまわれたとか……」
「滅多なことを言うな! とにかく、王子が行きそうな場所をしらみつぶしに探すんだ。アウトゥルは王子がいない間の執務の代行を、オスカー王子にお願いできるか伺って来てくれ」
「わかりましたっ」
フェルディナントに続いて皆どやどやと部屋を出て行き、部屋にはレオンハルト一人が残された。呼びとめようと伸ばした片手――猫になった今は前足の片方とでも言おうか――を上げたまま、声をかけるタイミングを逃して呆然としていた。数秒後我に返り、虚しく上げたままだった前足をおろし、ため息をつく。しばらくは、庭でも散策して時間を潰そう、そう思って外に出た。
レオンハルトは久しぶりに、ゆったりとした時間を過ごす。十五の歳から父王の補佐として政務に関わるようになって以来、午前中は講義、午後は会議と執務をこなし、夜は歴史などの本を読んで知識を必死に頭に詰め込んだ。大臣や貴族に言い負かされないように、若輩者と見下されないように、がむしゃらだった。
大きく息を吸い込むと爽やかな緑の匂いがし、清々しい気持ちになる。猫になって目線の高さが変わるだけで、見る景色が全然違うものになって新鮮だった。
野原に寝転がり、空を見上げる。
しばらく、このままでもいいかな。私がいなくても、執務は弟のオスカーが問題なくこなしてくれるだろう……そんな考えが頭をよぎる。
暖かい日差しのせいか、猫になって体温が高くなったせいか、瞼が重くなり意識が遠のく。再び意識が戻った時にはすっかり日が傾き始めていた。
レオンハルトは王城とは反対の城壁に向かって歩き出す。
魔法使いに魔法をかけられた時は自分の間抜けさに嫌気がさしたが、考え方を変えてみると猫にされたことは好都合だった。代価はいらないと言った魔法使いの言葉がどこまで信用できるかはわからないが、性急に事を考えても仕方がない。王子であった時は気軽に街に出ることは出来なかったが、猫の姿の自分を王子だと思うものは誰もいない。今まで知ることのできなかった街や国外の情勢を直接自分の目と耳で見聞きする良い機会だと思い、城壁を越え意気揚々と街に向かった。
しかしその考えが、生まれて十八年間王城で第一王子として大切に育てられた甘い王子様の考えだったと、のちに後悔することとなる。