第4話:『硝煙と嘘のアイロン ―元鑑識の残滓―』
三番町の路地裏。築数十年のビジネスホテル『サンテラス』の裏口で、湊は波留と合流した。
波留は湊の姿を認めると表情を輝かせたが、すぐに刑事の顔に戻った。
「お待たせしました、高橋さん。裏の荷物用エレベーターを使いましょう」
波留は、無意識に湊の袖に触れかけて、慌てて手を引っ込めた。
「フロントの江藤に見つかる心配もありません。……業者さんなら、正面を通るよりずっと自然でしょう?」
(……この人は、職務と私情の境界が曖昧だ)
湊は、波留の危うさを感じ取っていた。だからこそ、利用できる。
エレベーターで4階へ。狭い空間に、二人だけ。
波留は湊の横顔を盗み見ながら、深く息を吸い込んだ。湊が纏う石鹸と溶剤の匂い。彼女にとって、それは「完璧な仕事」の象徴だった。
「……404号室です」
波留が鍵を開け、部屋の扉を押し開く。
湊の視線が、瞬時に室内を走査した。カーペット、壁、ベッド、窓。元鑑識としての「眼」が、一瞬で異変を捉える。
「石田さん。カーテンは、元からこの開き方でしたか」
「え? ええ、最初に来た時と同じ……だと思います」
「『思います』では困る。現場は、一度人が入れば変わる。あなたの足跡も、私の足跡も、全て『ノイズ』になる」
湊の声が、冷徹に響く。波留は、その厳しさに背筋を伸ばした。
「……失礼しました」
「いいでしょう。では、私が見ます」
湊は使い捨ての手袋を取り出し、カーペットに膝をついた。床に残された「拭き跡」を、指先でなぞる。
「……だらしない。素人の掃除だ」
その言葉に、波留の眉が動いた。
「素人、ですか」
「ええ。血痕を落とそうとして、逆に広げている。パニック状態で拭いた跡です」
湊は立ち上がり、壁に近づいた。波留の見立て通り、わずかな「てかり」が残っている。
湊は壁に顔を近づけ、匂いを嗅いだ。
「……中和剤の選択を誤っていますね。普通の洗剤では、血液の鉄分は完全に消えない。だから、この『匂い』が残る」
波留の瞳が、熱を帯びた。
「さすが、高橋さん。やはり、あなたにしか見えないものがある」
湊は、波留の視線が壁に固定されている隙を突いた。
ベッドの脇、カーペットの繊維に絡みついた、極めて微細な金属片。波留の足元から数十センチ離れた場所に、それはあった。
湊は自然な動作で膝をつくと、小さなビニール袋を取り出し、指先でそれを掬い取り袋に押し込む。そして、さりげなくポケットに滑り込ませた。
(真鍮……安物のメッキ)
(指輪の突起が、欠けたのか)
(争った時に――)
「高橋さん?」
波留が振り返った。湊は何事もなかったように立ち上がる。
「いえ、何でも。……そういえば、石田さん」
湊は、波留の注意を逸らすため、別の場所を指し示した。
「ベッド下を確認しましたか? 血痕が飛散したなら、この角度では――」
その時、湊の指先が、小さな金属片に触れた。
ヘアピン。安っぽい、だらしない色の。
(……今カナを失えば真相に辿り着けない)
湊は、それを波留に見せる前に判断を下した。
「……いえ、何もありませんね」
だが、波留は湊の一瞬の動揺を見逃さなかった。
「高橋さん。今、何か見つけましたね?」
「いいえ」
「嘘です」
波留が一歩、湊に近づく。
その瞳には、憧れではなく、刑事としての鋭さが宿っていた。
「あなたの呼吸が、一瞬乱れました。何を隠しているんですか」
沈黙。
二人の視線が、至近距離で交錯する。
湊は、波留の目を見据えたまま、静かに口を開いた。
「……石田さん。実は、この部屋のオーナーから、事前に相談を受けていたんです」
「相談?」
「ええ。『部屋を汚した客がいる。警察沙汰にする前に、どの程度の汚れか見てほしい』と。それで、あなたから連絡をいただく前に、一度この部屋に入っていた」
波留の表情が、微かに揺れる。
「……なぜ、それを言わなかったんですか」
「クリーニング業の守秘義務です。依頼主の許可なく、詳細は話せません」
湊の声には、一点の迷いもなかった。元警視庁鑑識官としての「プロの顔」が、完璧に貼り付いている。
波留は、湊の瞳を見つめた。
そこには、彼女が憧れてきた「完璧な仕事人」の姿がある。嘘をつく理由がない。いや、嘘をつけるはずがない。
「……そうですか。高橋さんがそうおっしゃるなら」
波留は、一歩引いた。
「では、改めて伺います。この部屋で、何か『事件』の痕跡を見つけましたか?」
「いいえ。悪質な悪戯の跡でしょう。血液も少量、おそらく鼻血か何かです」
「わかりました」
波留は、深く息を吐いた。刑事としての勘よりも、湊への「盲信」が、彼女の判断を塗り替えていく。
「では、降りましょう。江藤が待っています」
二人が部屋を出る。
波留が先に廊下へ出た隙に、湊は最後に振り返った。ベッド下のヘアピンが、まだそこにある。
(……このまま見逃すわけにはいかない)
湊は、波留に気づかれないよう、ヘアピンを拾い上げ、ポケットに滑り込ませた。
―――
404号室での「作業」を終え、二人は客用のエレベーターで一階へと降りた。
「高橋鑑定員、ありがとうございました」
ホテルのロビーで、波留は湊に深々と頭を下げた。
「あなたの見立て、正式な報告書に記載させていただきます。嘱託鑑定員による『事件性なし』との所見を添えて」
その横で、相方の江藤――中年の刑事が、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「石田。まだ事件化もしてない空室に、わざわざ外部の人間を引っ張り出すとはいい身分だな。経費(鑑定料)の決裁、通ると思ってるのか」
「……石田刑事の独断ではありません。私は県警から委嘱を受けている身です。現場の初期判断に専門家の関与が必要だと判断されれば、それに応じる義務があります」
湊が事務的な口調で返すと、江藤はさらに眉をひそめた。
「義務、ねえ。元警視庁の看板を背負ってりゃ、地方の所轄のやり方が手ぬるく見えるってか。……勝手にしろ」
江藤は湊を一瞥し、忌々しげに踵を返した。
波留は、困ったように微笑んだ。
「すみません、高橋さん。相方は、少し……。現場を『部外者』に荒らされるのを極端に嫌うんです。たとえ、それが正式な鑑定員であっても」
「いえ。彼の言う通りです。部外者が余計な真似をしたことに、変わりはありません」
湊は短く答え、ホテルを後にした。
店に戻った湊は、ポケットから二つのものを取り出した。
真鍮の破片と、カナのヘアピン。
顕微鏡の接眼レンズを覗き込む。真鍮にメッキを施した、安物の装飾品の破片。表面には擦過痕がある。
(安物のアクセサリー……指輪か?)
(カナの指にも、似たような指輪があった)
(争った時に――欠けたのか)
湊は、ヘアピンを握りしめた。
「……何者なんだ、君は」
窓の外、向かいのアパート201号室では、カナが無防備な寝息を立てているはずだ。
だが、湊には確信があった。
彼女は獲物などではない。あいつらを、自分の元へ運んできた「運び屋」だ。




