第3話:『紺青の足音 ―石田波留の矜持―』
同日、午前8時30分。松山中央署。
高橋クリーニング店に向かう1時間半前。
石田波留は、上司の机の前に立っていた。
「係長。昨夜23時過ぎ、匿名で110番入電がありました。三番町のホテルサンテラス、404号室で人が倒れるのを見た、とのことです」
上司が面倒そうに肩を回すと、制服の肩口に据えられた階級章が鈍く光った。
銀色の地板に、金の一筋が走る「警部補」の輝き。
それは現場責任者としての権限と、組織の論理という、波留には超えられない壁の象徴だった。
上司が手元の「110番処理票」の写しを見る。
「これか。一番町交番の巡査が臨場してるな。報告は……『異常なし』。室内は清掃済み。争った形跡も、目視での血痕も確認できず、か」
「被害届は?」
「ありません。フロントも『特段の騒音はなかった』と。……そもそも、昨夜の404号室に宿泊記録は残っていません」
上司の手が止まる。
「記録がない? なら、空室にいたずら通報があっただけだろう。何を騒いでる」
「遺体は?」
「当然、ありません。ですが、昨夜は空室のはずなのに、今朝、清掃が入った形跡があるんです」
「目撃者は?」
「公衆電話からの匿名通報のみです。逆探知も不可」
上司が資料をデスクに放り投げる。
「石田、うちは万年人手不足なんだ。昨夜は大街道で乱闘、今朝は勝山通りでひき逃げだ。記録上は誰もいない、ただの空室に、これ以上リソースは割けない」
「それに、サンテラスは八名グループの関連施設だ。下手に動いて、後で問題になったら困る」
「ですが係長。404号室ですよ。サンテラスのようなホテルは、四階を忌み嫌って本来なら客を入れないはずの部屋です」
「……何が言いたい。不吉だから事件だってか? そんなのはオカルトだ。よくある愉快犯のデマだよ。番号の語呂合わせで、それっぽい部屋を選んだだけだろ」
「いいえ。……私の『眼』が、あそこには何かがあったと言っているんです」
「……考えすぎだ。妄想で動けるほど、うちは暇じゃない」
上司が鼻で笑い、ペンを走らせる。
「なら、勝手にしろ。ただし、鑑識も機捜も出さんぞ。正式な捜査令状が出るわけないからな」
波留が席に戻る。
デスクの上には、未処理の書類が積まれている。だが、波留の頭の中は、404号室のことでいっぱいだった。
手帳を開く。昨夜、交番の巡査が書いた報告書のコピーを見返す。
「室内清掃済み。血痕なし。異常なし」
だが――波留の直感が、何かがおかしいと囁いている。
(フロントへの聞き込みだけでは……真相は掴めない)
(なら、私が個人的に――)
波留の脳裏に、ある人物の顔が浮かぶ。
高橋湊。
波留の胸が、わずかに高鳴る。彼の顔を思い浮かべるだけで、心臓の鼓動が早くなる。自分でも、不思議なくらいに。
元警視庁鑑識官。現在は、松山でクリーニング店を営んでいる。嘱託鑑定員として、県警に登録されている。
完璧な仕事をする人。
波留は、何度も彼の店であるクリーニングへ預けてきた。最初は偶然だった。銀天街を歩いていて、たまたま見つけた小さな店。
だが、一度預けてから――波留は虜になった。
シミ一つ残さない、完璧な仕上がり。まるで魔法のように、どんな汚れも消してしまう。
波留は、湊の手元を見るのが好きだった。繊維を見つめる、あの集中した瞳。指先で生地を確かめる、あの丁寧な動作。
あの人なら――
現場を見れば、何かがわかるはずだ。
波留は、立ち上がる。決意を固めて。
相方の江藤が、デスクから顔を上げる。
「石田。どこ行く」
「……404号室の現場を、もう一度確認してきます」
「一人で?」
「いえ。専門家に同行してもらいます」
江藤が眉をひそめる。
「専門家? 誰だ」
「高橋湊さん。元警視庁の鑑識官です」
「……ああ、あの嘱託鑑定員か」
江藤が鼻を鳴らす。不機嫌そうに。
「勝手にしろ。ただし、俺は表でフロントに聞き込みする。お前は裏口から入れ」
「わかりました」
波留が署を出る。
外は、晴れ。松山の街が、朝の光に包まれている。空は高く、雲一つない。
波留は、駐車場に向かう。革靴の音が、アスファルトに響く。
車に乗り込む。エンジンをかける。ハンドルを握る手が、わずかに震えている。
(高橋さん……)
(あなたの力を、貸してください)
波留は、深く息を吐く。
(これは、職務だ)
(私情ではない)
だが、波留の心の奥で――別の声が囁く。
(あなたは、高橋さんに会いたいだけではないのか?)
波留は、その声を振り払う。ハンドルを強く握る。
車が、署を出る。
向かう先は――銀天街の裏路地。高橋クリーニング店。
―――
波留は、車を路地の入り口から離れた駐車場に停める。
この先は、車が入れない。古い建物がひしめき合い、道幅が狭い。軽自動車でさえ、通過するのも難しい。
波留が車を降りる。ドアを閉める。鍵をかける。
路地の奥へ、歩いていく。
「コツ、コツ、コツ……」
革靴の音が、静かに響く。建物の壁に反響して、自分の足音が何度も聞こえる。
この路地は、複雑に折れ曲がっている。初めて来た時は、迷った。だが、今は違う。
波留は迷わない。
何度も、この店に通ってきた。湊の店に。あの完璧な仕事をする人の、店に。
波留の心臓が、高鳴る。
(高橋さんに、会える)
(また、あの人と――話せる)
波留は、自分の感情を抑えようとする。深呼吸をする。
(これは、職務だ)
(私情ではない)
(404号室の現場を確認するために――高橋さんの専門的な意見が必要なだけ)
だが――
波留の胸の奥で、何かが囁く。
(本当に?)
(あなたは、ただ高橋さんに会いたいだけではないのか?)
波留は、その声を振り払う。首を振る。
路地の奥。曲がり角を三つ過ぎて。
高橋クリーニング店の前に、着いた。
白い看板。シンプルなデザイン。清潔感がある。湊らしい、完璧な店構え。
波留が、ドアに手をかける。
深く、息を吸う。
そして――
ドアを開ける。
「カラン」
ドアベルが、軽やかに鳴る。
店内。
湊が、作業台の前に立っている。
波留の心臓が、大きく跳ねる。
(高橋さん……)
湊は、こちらを見た。その瞳は、いつもと同じ。冷静で、落ち着いている。
だが――
波留は、気づく。
湊の目の下に、わずかな隈がある。一睡もしていないような。
そして――
波留は、深く息を吸う。店内の空気を、嗅ぐ。
(……何か、いつもと違う)
いつもは、洗剤と石鹸の香り。清潔で、爽やかな匂い。
だが、今朝は――
(鉄の――匂い)
波留の刑事としての本能が、囁く。
(ここで――何かがあった)
波留は、湊を見つめる。
湊も、波留を見つめている。
二人の視線が、交錯する。
沈黙。
波留が、口を開く。
「おはようございます。松山中央署刑事課の石田波留と申します」
そして――
警察手帳を、取り出した。




