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午前0時のクリーニング店。嘘つきな隣人の殺意は落ちません。  作者: Darth Tail(ダース テイル)
【第1章】日常と出会い

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第2話:『返り血のエプロン ―消えない染み―』

 カナが落ち着くためのタオルと、淹れたての紅茶を用意した後、作業は1時間に及んだ。


 みなとがアイロンを置くと、エプロンは真っ白になっていた。まるで、最初から何も起きていなかったかのように。


「……綺麗になったね、湊さん」


 カナが、湊の背中に顔を埋める。安っぽい柔軟剤の甘い匂いが、湊の鼻腔にこびりついた。彼女の体温が、湊の背中を通して伝わってくる。生々しい、人間の温度。


「これで、あたしと湊さんは同じやね」


 湊はカナの手を振り払わなかった。振り払えなかった。


 彼女の言う通りだ。この瞬間から、自分は父と同じ罪を背負った。証拠隠滅教唆幇助しょうこいんめつきょうさほうじょ犯人隠避はんにんいんぴ。どんな罪状が付こうと、もう後戻りはできない。


「……もう夜明けやね。帰るわ」


 カナが店を出ていった後、湊は一人、作業台の前に立ち尽くした。窓の外、向かいのアパート201号室の明かりが消える。カナが部屋に戻ったのだろう。


 湊はカウンターの下から消毒液のボトルを掴み、カナが触れた場所を何度も拭いた。カウンター、作業台の縁、ドアノブ。彼女の指紋が残っているかもしれない場所を、一つ一つ、執拗に。


 だが、彼女が置いていった「染み」は、どんな薬品を使っても落ちそうになかった。



 その後、湊は一睡もできないまま、店内の清掃を続けた。


 作業台を磨く。床をモップで拭く。カウンターを消毒する。カナの気配が残る全ての場所を、執拗に拭き続けた。


 手を動かしていないと、昨夜の光景が蘇ってくる。血まみれのエプロン。白い蒸気。カナの震える声。


 気がつけば、窓の外は完全に明るくなっていた。時計を見る。午前10時。


 この店に、役所のような厳格な始業の合図はない。個人商店の朝は、店主の気分次第だ。それでも、表に出てシャッターを上げ、通りに看板を置けば、それがこの裏路地に対する「今日もやっている」という静かな報せになる。


 急ぎの客が来れば早めにボイラーを回し、来なければ熱い茶を淹れる。そんな柔軟な呼吸が、湊は嫌いではなかった。


 だが今は、シャッターを上げる気にはなれなかった。昨夜の出来事が、まだ生々しく残っている。店内には、まだ微かに消毒液の匂いが漂っている。



 その時だった。


「コツ、コツ、コツ……」


 路地の奥から、規則正しい靴音が近づいてきた。


 湊の背筋に、冷たいものが走る。


 この時間に、この路地を迷わず歩いてくる人間など――普通はいない。この銀天街の裏路地は、古い建物がひしめき合い、複雑に折れ曲がっている。


 だが、その足音は――迷いなく、真っ直ぐに、この店に向かってくる。


「カラン」


 ドアベルが鳴った。


 入ってきたのは、見覚えのある女性だった。


 チャコールグレーのパンツスーツに身を包んだ、若い女性。凛とした佇まい。肩のラインで潔く切り揃えられた黒髪は、俯いても視界を邪魔しないようサイドが耳の後ろへタイトに流されている。


 彼女は月に数回、クリーニングを預けに来る常連客だった。いつも丁寧で、湊の仕事ぶりを称賛してくれる。落ち着いた物腰から、OLか何かだと思っていたが――


「おはようございます。松山中央署刑事課の石田波留いしだはると申します」


 彼女は警察手帳を提示した。顔写真の下に印字された名前。階級章は「巡査部長」。刑事課所属。


 湊の呼吸が、一瞬止まる。


(石田さん……まさか、警察の人だったのか?)


 湊は、作業台に置いたままのアイロンを見た。まだ、ほんのり熱を持っている。昨夜、カナのエプロンを処理した、あのアイロン。


「高橋湊さん。少し、お時間よろしいですか――業務として、お伺いしたいことがあります」


 波留の声は、いつもの柔らかさとは違う。刑事としての、プロの顔。


「……何か」


 湊は、できるだけ平静を装って答える。



「ええ。実は昨夜、この近くのホテルで――」


 波留が言葉を切った。


 彼女の鼻翼が、微かに動く。店内の空気を吸い込むように、深く息を吸った。


 そして、湊を見つめたまま、静かに言った。


「……高橋さん。何か、いつもと匂いが違いませんか?」


 湊の心臓が、一度だけ、大きく跳ねた。


 波留の視線が、湊の背後にある作業台へと吸い込まれていく。昨夜、カナのエプロンを広げた、その場所へ。白いLEDライトが、今も変わらず作業台を照らしている。


「この店、いつもは洗剤と石鹸の香りしかしないのに……今朝は、何か――」


 彼女の瞳が、細められる。刑事の目だ。現場を見る、プロの目。


「――鉄の匂いがします」


 湊は、何も答えられなかった。


 鉄の匂い。血液に含まれるヘモグロビンの、あの独特の匂い。元鑑識官なら、誰でも知っている。何度も嗅いだ、あの匂い。


 波留の視線は、作業台に釘付けになっている。昨夜、あの白い蒸気が立ち上った、まさにその場所に。


「高橋さん」


 波留が一歩、近づく。革靴の音が、静かに店内に響く。


「昨夜――ここで、何かありましたか?」


 湊の手が、わずかに震える。ポケットの中で、小さな試験管が指先に触れる。カナのエプロンから採取した、血液サンプル。


(落ち着け)

(何も証拠はない)

(エプロンは完璧に漂白した)


 だが――


 波留の嗅覚は、湊が消しきれなかった「何か」を嗅ぎ取っていた。消毒液でどれだけ拭いても、血液の匂いは完全には消えない。鉄分が、空気中に微量に残る。



 沈黙が、店内を満たす。


 波留は、湊の目を見つめたまま、じっと待っている。彼女の瞳には、確信と――そして、何か別の感情が混ざっている。湊への憧れ。信頼。それが、彼女の判断を鈍らせている。


 湊が口を開く。


「……昨夜は、急ぎの仕事がありました」


「急ぎの、仕事?」


 波留が、手帳を開く。メモを取る構え。


「ええ。大量の業務用タオルの漂白です」


 湊が続ける。嘘を重ねる。元鑑識官としての知識を、嘘を固めるために使う。


「強力な薬品を使ったので――その匂いが残っているのかもしれません」


「薬品……」


 波留の瞳が、揺れる。


 彼女は、湊の言葉を信じたいと思っている。この店に何度も通い、湊の仕事を見てきた。その完璧さに、憧れてきた。


 だが、刑事としての本能が――何かがおかしいと囁いている。


「……そうですか」


 波留が、一歩引く。メモ帳を閉じる。


「では、改めて――昨夜、三番町のホテルサンテラス、404号室で匿名の通報がありました」


「人が倒れているのを見た、と」


 湊の息が、止まる。


 404号室。カナが働いているホテル。カナのエプロンが、血まみれになった場所。


 波留が続ける。視線は、湊から離れない。


「現場を確認したいのですが――高橋さんの専門的な意見をお借りできないかと思いまして」


「私は、もう鑑識ではありません」


 湊が答える。距離を取ろうとする。


「ええ。でも、嘱託鑑定員しょくたくかんていいんとして、県警に登録されていますよね」


 波留が、湊を見つめる。その瞳には、懇願に近いものがある。


「お願いできませんか?」


 湊は、作業台を見た。


 昨夜、カナのエプロンを広げた場所。今は、何もない。ただ、真っ白な台だけが――そこにある。


 もし断れば、波留は疑うだろう。なぜ断るのか。何か隠しているのか。


 だが、受ければ――404号室に、自分の足で向かうことになる。カナが、何をしたのか。その現場に。


「……わかりました」


 湊が答える。もう、選択肢はなかった。


 波留の顔が、パッと明るくなった。刑事の顔から、一瞬だけ、普通の女性の顔に戻る。


「ありがとうございます!」


 波留が続ける。声が、少し弾んでいる。


「では、30分後に――ホテルサンテラスの裏口でお待ちしています」


「裏口からの方が、目立ちませんので」


 湊が頷く。


「……わかりました」


 波留が店を出る。ドアベルが、軽く鳴る。


「コツ、コツ、コツ……」


 規則正しい靴音が、路地の奥へと消えていく。今度は、来た時よりもほんの少し軽い足取りのようだった。


 湊は、一人残された。


 作業台に手をつく。冷たいステンレスの感触が、手のひらに伝わる。


(石田さんは――気づいている)

(鉄の匂いを)

(血の匂いを)


 湊は、ポケットに手を入れる。


 そこには、カナのエプロンから採取した血液サンプルが入っている。小さな試験管。透明なガラスの中に、わずかな赤い液体。


 この試験管さえあれば――真実を証明できる。DNA鑑定をすれば、血液の持ち主が誰なのか、すぐにわかる。


 だが――


(俺は、もう引き返せない)


 湊は、試験管を握りしめる。


 午前0時のクリーニング店。汚れは落ちても、この刑事が嗅ぎつけた「罪」だけは、どんな薬品を使っても消えそうになかった。


 窓の外、松山の街は穏やかな朝を迎えている。商店街に人が行き交う。いつもと変わらない、日常の風景。


 だが、この店の中だけは――罪の匂いが、まだ消えずに残っていた。


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