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午前0時のクリーニング店。嘘つきな隣人の殺意は落ちません。  作者: Darth Tail(ダース テイル)
【第1章】日常と出会い

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第1話:『返り血のエプロン ―深夜の訪問者―』

「……トントン」


 深夜0時を前にした松山の街は、冷たい雨に打たれ静まり返っていた。


 高橋クリーニング店の裏口を叩く音が、店主、高橋湊たかはしみなとの作業を中断させる。


 湊は裏口の覗き穴から外を確認した。ずぶ濡れの女が一人、震えながら立っている。向かいのアパート201号室の住人――鍵谷かぎやカナだ。


 重い鉄扉てっぴを開けると、彼女は湊の腕にすがりついてきた。

「湊さん……助けてや」


 昼間の明るい仮面は剥がれ落ち、顔は死人のように蒼白だ。差し出された黒いビニール袋から滑り落ちたのは、血に汚れたホテルのエプロンだった。


「……何をした」

 湊の声は、驚くほど冷えていた。


 元警視庁鑑識官として、幾度となく血痕を見てきた彼の目が、エプロンの染みのパターンを瞬時に分析する。


 接触血痕――トランスファー。

 誰かの体に触れた際に転写された、こぶし大の血痕。

 圧着による、濃密な転写。


 湊の目が細められる。


(誰かが、カナのエプロンに――縋り付いた)

(意識を失いかけた状態で)

(血を流しながら)


「……わからんの。気がついたら、あいつが倒れとって……動かんくなって」


 カナの声が震える。その瞬間、彼女の口調から明るい口調が消え、重く湿った「あたし」が剥き出しになった。


「……血だらけで。ねえ、湊さん。これ、消せるよね? あんたなら」



 湊は無言でカナを店内に引き入れ、鉄扉を二重に施錠した。


 店内の空気は、外界の湿気とは無縁の、まばゆいばかりの「白」に支配されていた。大型の作業台、磨き上げられたステンレスのカウンター、一点の曇りもない床。


 この「白」を維持することだけが、湊が自分をこの世界に繋ぎ止めるための境界線だった。


「……台に載せろ」

 湊はエプロンを作業台に広げた。白いLEDライトが、真紅の染みを容赦なく照らし出す。


 カナは湊の背中越しに、彼の手元を見つめていた。

「……ねえ、湊さん。おじさんも、こうやって洗ってくれたんよね」


 湊の手が、一瞬止まった。


 10年前。この店で、父が「ある依頼」を受けた夜のことだ。


 深夜、父は急な呼び出しを受けて、車で出かけた。数時間後、父が戻ってきた時――車のトランクには、大量の業務用タオルとシーツが詰まっていた。血にまみれていた。


 父は何も語らず、ただ黙々とその汚れを落とし続けた。


 そして数週間後――新聞に、「八名やなグループ元社員失踪」の記事。

 村上健一という男が、横領して海外に逃亡したという。


 同じ頃、父は忽那くつなという中央署の幹部から取り調べを受けた。


「証拠隠滅の疑い」


 だが、父は何も語らなかった。結局、立件されることはなかった。


 その直後――忽那は警察を去った。そして、八名信一郎の「番犬」になった。


 そんな父も1年前にこの世を去り、湊はこの「白い牢獄」を相続することになった。


 そして、その現場を――カナは見ていた。


「……湊さんは、あたしを見捨てるん?」



 湊は作業台の下から、試験管とスライドガラスを掴み出した。


 エプロンの裏地にべっとりと付着した「生」の赤を、ガラスの端で慎重にこそぎ落とす。繊維に深く染み込む前の、最も純度の高い生体試料サンプル


「……これさえあれば、いい」


 湊は小瓶を懐に隠すと、カナの目を見据えた。

「お前が何をしたのか、俺は知らない。知りたくもない。だが、もしこれが『事件』なら、俺は共犯者になる」


「わかっとる」

 カナは湊の手を掴んだ。

「でも、湊さんも――『完璧』じゃないやろ?」


 湊の目が、わずかに細められる。


「この店、10年前から――ずっと、ここにある。クリーニング店って、普通は潰れるもんやけどね。でも、この店は――ずっと続いとる」


 カナが湊を見つめる。

「それって、不思議やと思わん?」


 湊は、何も答えなかった。


「あたし、知っとるんよ。この店が――誰かに『守られとる』って」


 カナが小さく笑う。

「湊さんも、もう――引き返せん場所におるんよ」



 湊は何も答えず、シミ抜き用の棚から劇薬のボトルを手に取った。


 高濃度の次亜塩素酸ナトリウムと、劇物指定の過酸化水素。元鑑識官の湊にとっては、有機物の塩基配列をズタズタに断絶させるための破壊試薬に他ならなかった。


 薬品を残った染みに惜しみなく注ぐ。鮮やかな赤が、強力な酸化作用でどす黒く変質していく。


 そこへ、ボイラー直結のプロ用アイロンを力任せに叩きつけた。


「……ッ、シュウウウウウッ!!!」


 噴出した猛烈な過熱蒸気が薬品と反応し、残存する血液の分子を文字通り粉砕していく。タンパク質は加水分解され、DNAの鎖は熱と酸化によって跡形もなく崩壊した。


 視界を真っ白な「霧」が埋め尽くす。


 爆発的に膨張した蒸気が、分解されたヘモグロビンの残骸を排気ダクトの彼方へと追いやった。


 湊が絶妙なタイミングでアイロンを離すと、そこには焼け焦げた跡一つなく、ただ吸い込まれるような白だけが残されていた。


 エプロンは、最初から何も起きていなかったかのように、新品の輝きを取り戻していた。


 この世で唯一、あの夜の真実を証明できるのは、湊のポケットにある小さな試験管だけだった。


 それは罪を消す音であり、彼が地獄へ堕ちる契約の音だった。


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