もう治りました
私は風呂が大好きだ。
ゆったりと湯船につかり、一日の出来事を振り返る。
それだけで、その日あった嫌なことを忘れられるからだ。
その日も、早くから温泉施設に出かけ、ひとりでお湯を楽しんでいた。
濁り湯もあったが、その日は少し茶褐色の、透明度の高いお湯だ。
後から何人か入ってきたが、不慣れなのか、戸惑い気味に入ってくる人もいたようだった。
私も最初はそうだったな、と思いながら水面に目を落とす。
すると、湯船の中にはだれもいないはずなのに、その水面が、ちら、と揺れた。
なんだろう、と見つめていると、黒い髪の毛が浮かび、徐々に顔らしきものが浮かび上がってきた。
動くこともできず、その顔を見つめる。
にやけた笑いが張り付いた、男の顔だった。
心臓は早鐘を打ち、頭の中に警鐘が鳴り響く。
ありったけの力を振り絞り、勢いよく立ち上がった。
周りの人は驚いたような顔でこちらを見ていた。
もう二度と、あの温泉施設にはいかない。
幽霊でも出る温泉施設なのかと、ネットを検索してみたりもしたが、そんな噂はついぞ聞かなかった。
風呂好きではあるが、仕事がある日は大抵シャワーで済ませている。
湯船を洗うのも大変だし、その分早く寝たいと思っているからだ。
休みの前の日、湯船のお湯をためる。
お気に入りの入浴剤を入れ、キャンドルなんかを点けてゆっくり入ることもある。
その日も濁り湯の入浴剤を入れ、ゆっくりと湯船に体を沈めた。
しばらくお湯を楽しんでいると、ゆらり、と水面が揺れた。
あれ、動いたっけ?
嫌な予感を抑えつつ、水面を見つめる。
黒い髪の毛。
――あの温泉施設から、ついて来てしまったのか。
心臓は早鐘を打つが、おかしなあきらめの感覚も混ざっている。
顔全体が濁ったお湯に揺らいでいる。
ゆっくりと体を持ち上げ、そのまま湯船の外に足をつく。
ずっと見ていたはずなのに、その時にはもう顔は見えなくなっていた。
霊に取りつかれてしまったのかもしれない。
そう思った私は、次の日にお祓いに行くことにした。
幸い、近所にある大きめの神社でお祓いを受けることができた。
霊能者のほうがいいのかもしれないが、あいにく知り合いにはおらず、伝手もなかった。
しばらくは湯船につかる気にもならず、シャワーで過ごしていたが、
やはり風呂に入りたい気持ちは抑えられなかった。
それでも一人でつかるのは怖いので、前の温泉施設とは別のスーパー銭湯に出かけることにした。
銭湯自慢の、茶色い濁り湯に恐る恐る足を入れる。
体を沈めると、ふう、とため息を一つついた。
――ゆら。
とたんに胸が重くなる。
ああ…またかよ。
にやにやと揺らめくだけの顔。
よく考えれば、こいつはにやついてゆらゆらしているだけで、何もしてこないよな?
でも、こんな風ににらめっこするのは……
目をそらそうとするが、目をそらすことができない。
こいつが現れているときは、目が釘付けになってしまうらしい。
さっきとは違うため息をついて、早々に施設を後にした。
その後も自宅の風呂や、温泉施設でやつを見る羽目になった。
目を逸らせないが、何もしてこないのでどうということはない。
――ただ、にやついていた顔がだんだん真顔になってきている
不安を覚えてきたころ、出張先の有名な温泉施設に入ることにした。
いつも県内の温泉施設だ。
あんな顔のために、この機会を逃すわけにはいかない。
無色透明の、少ししっとりとしたお湯だ。
有名温泉だけあって、すでに先客は何人もいる。
手すりにつかまりつつ、ゆっくりとお湯にはいる。
体を沈め、お湯を堪能する……あの顔の出現を覚悟して。
しばらく浸かっていたが、あの顔が出てくる様子がない。
なんでだ――
バシャッ!
向かいの男性が勢いよく立ち上がると
ああ、あの人に移ったんだ――
そのままの勢いで湯船から上がる。
気の毒に――
出ていく背中を見送る。
だけど――私は――もう治りました。




