懐かしき日々、それは苦悩と苦痛と挫折とほんの少しの喜び
「ラヴ!」
田舎…それも山に囲まれ周囲には他に民家も見当たらない『ど』が付くほどの田舎。
そこで一人暮らす男は、縁側から庭へ向けて声を張り上げた。
ハッハッハッハッ
そこへ駆け寄るのは一頭のゴールデンレトリバー。
「よーし、よしよし。足を拭いて上がるぞ?」
ハッハッハッハッ…ペロッ
「待て待て…わかったからっ!頼むから足を拭かせてくれ!」
男が濡れたタオルで前足を拭いていると、その男の顔をベロベロと舐め回す犬。
その光景は慈愛に満ちていた。
お互いがお互いを思い遣り、信頼している。
単にその関係を築けたのは、男一人だけの想いではなく、この犬もまた歩み寄ったから。
「よーし。今日はデザートに林檎も付いてるぞー」
男の言葉に犬の荒々しかった呼吸が止まる。
いや。正確には『林檎』という単語で。
「…一応言っておくけど、俺と半分こだからな?」
果たして、その言葉は届いたのか?
犬の瞳は期待で満ち溢れていた。
都会の喧騒と離れた田舎の庭付き一戸建て。
賃貸とはいえ、男の人生は順風満帆に映る。
しかし、ここまでの道のりは決して楽で平坦なものではなかったのだ。
「悪いな」
アパートの一室。そこでは恋人から唐突な別れを告げられた女が、顔を伏せて涙を流している。
簡単な謝罪の言葉を告げた後、男はその部屋から出ていった。
「結婚とか考えられないんだよな…重いというか、現実味がないというか…」
別れを切り出した要因は二つ。
男に将来を他人と暮らすビジョンが存在しなかったから。
もう一つは、元恋人が結婚の二文字をチラつかせてきた為。
その二つは決して交わることはなく、今回もまた二年の交際期間を経て二人の物語に終止符を打った。
そう。
これまでに似たようなことを片手では数えきれない程繰り返してきたのだ。
先がないのであれば、恋人など作らなければいいのでは?
男はそう考えた時もあったが、巷では恋人同士でしか行えないイベントばかりが溢れていた。
クリスマス、初詣、バレンタイン…所謂デートと呼ばれているもの全般。
それは男にとって、ステータスとして魅力的に映るものばかりだった。
「悪いことをしたな。でも、割と早く切り出せたんじゃないかな?」
先延ばしにしても結果が同じなのであれば、少しでも早いに越した事はない。
そう言い訳を口にして、男は夜の街へと消えていった。
「ちゃんと来いって言ったよなっ!?」
少年は怒りを抑えられない。
その怒りをぶつけている相手も同年代の少年だ。
「悪かったって。な?」
「な?じゃねーよ!お前が来なかった所為で青中に負けたんだからなっ!俺達三年にとっては…中学最後の試合だったのに…」
「いや…泣くなよ…悪かったって…」
どうやら。
少年は部活をずる休みした様子。
それも中学最後の試合の日に。
反省の色が見えなかった少年だが、同級生の涙を見たことにより、居た堪れない様子となっていた。
少年はスポーツ万能…というわけではない。
同じように練習をしていれば同年代には劣らない程度。
その程度の才能はあった。
『やれば出来る』
それが少年に甘えを植え付け、サボり癖もまた備わってしまっていた。
勉強も同じく。
上を目指す向上心さえ持っていれば、進学校へと進み、東大京大とは言わないまでも有名大学へ滑り込むことも可能な才能があった。
しかし、それも甘えた。
なまじ様々な生徒が集まる田舎の公立中学校。
上は遥か高みにおり、下は腐るほど存在した。
『平均点を取れてればいいだろ』
勉強しなくともそれは可能だった。
毎年のように卒業生に現役東大生が一人はいる。
何せ田舎の中学とはいえ、分母が大きい中学校なのだから。
勿論優秀な生徒以上に学力が小学校で止まっている生徒もいた。
そんな生徒はやんちゃな者が多く、田舎ならではだが将来もある程度決まっていた。
親が漁師であればそれを継いだり、建設業に知り合いのコネで入る予定だったりと。
それはさておき。
ただそれだけ。
それだけで平均点は勉強せずとも取れたのだ。
「高校では部活に入らない」
この言葉は目の前で涙を流している少年へ向けたものなのか?
それとも、自分自身へ向けたものなのか?
恐らく両方だろう。
少年は悪い子ではないのだ。
だから許してほしいという気持ちも持ちつつ、自分も周りもその方が幸せだと結論を出した。
「家を出ていく…?」
少年は少し大きくなっていた。
「ああ。一人暮らしがしたくて」
「……好きにしなさい」
田舎の家によく見られる仏間。そこにある大きなテーブルを挟み、顔色を変えることなく少年の父親が応えた。
少年は無事に高校を卒業した。
次の進路は大学かと思えたが、様子が違う。
少年は相変わらず勉学に励むことのないままこの時を迎えていたのだ。
「親父のコネで働くのは嫌なんだ。悪いな」
「それは別にいい。お前の人生だからな。だから、お前にしかお前の人生の責任は取れん。忘れるな」
「…覚えておく」
子供の時は好き勝手に人の進路を決めていたのに…
少年の内心は複雑だ。
幼い頃より近所から名家のご子息と言われ続け、仕事でそこそこ成功している父の話ばかり聞かされてきた。
名家と言っても所詮は片田舎での話。
莫大な財産があるわけでもなく、そこそこの田畑を所有している程度。
父親の成功も田舎での話。
外車を乗り回せるほどのものではない。
地元に根差した田舎企業の重役というだけだ。
勿論、それでも誇れるものだが、まだまだ子供が抜けきらない少年には小さく思えた。
家も、親も。
そんな家の…親の言いなりにはなりたくない。
一端の反骨心を持って、少年は家を飛び出したのであった。
それから十八年後。
実家に住んでいた時と同じだけ一人暮らしが続いていた。
地元に残る同級生は皆結婚して、その殆どが子を儲けていた。
「住みづらく……いや、自業自得だな」
整えられた部屋。凝り性で几帳面な性格が滲み出ているアパートの一室で男が独り言ちる。
「遊び相手は減る一方。周りからは同じ言葉の繰り返し」
良い人はいないの?
実家にはいつ帰るの?
良いよな、独り身は。
男に味方は居なかった。
いや、探せば見つかるのだろうが、この時の男の目には映らなかっただろう。
「…責任…か」
ふと、家を飛び出した時の父親の言葉が脳裏を過ぎる。
「…どうせ、死ぬまで生きるだけ」
当たり前の言葉だが、男は初めて死を意識した。
「やり…直せるのだろうか?遅くないか?」
男が子供の時から変わらず持ち続けているもの。
それは
怠惰
見栄
優しさ。
その優しさが、突き動かす。
「沢山不幸にしてきた。いや、親に至っては未だに親不孝者だけれど……
でも、変われる。変わらなくちゃいけない」
クラスメイト達。
部活の仲間達。
元恋人達。
彼らには何も返せない。
でも、これ以上増やしてはならない。
だから、一生独り身で構わない。
これはヤケではない。
代わりに周りの人達を幸せにすれば良い。
「よしっ!決めた!これからは一生懸命生きるぞっ!」
人並み以上に恵まれていた為、生きていく為に努力が必要なかった。
しかし、それでは居場所もなくなり、周りを不幸にするだけ。
これからは、きっと。




