新世界『エトランゼ』
「御坊ちゃま。おはようございます」
丸メガネが似合うキリッとした妙齢の女性。
彼女の名前はサーニャ。
ここオーティア男爵家に仕えるメイドだ。
「おはよう。今日もいい天気だね」
挨拶と共にカーテンが開けられると眩しい朝日が差し込んできた。
「…何度もお伝えしましたが、メイドに挨拶は不要です」
「はは…そうだったね」
貴族の子弟である僕が挨拶を返したことで、僕にだけ元々キツめなサーニャの視線が鋭さを増した。
「…御坊ちゃま。それは?」
「これ?これは算盤っていってね、計算の…『結構です』…そう…」
「御坊ちゃまが神童であることは承知しておりますが、男爵家嫡男に必要とされるのはなにも学だけではありません。
御坊ちゃまは勉学の方は優秀ですので、どちらかというと礼節の方に力を注いで欲しいものです」
僕の知識の範囲内だけど、この世界に算盤は存在しない。
これは暇つぶしに僕が作ったものだ。
そう、僕には前世の……この世界とは全く別の世界の記憶がある。
僕はこの世界の異物……異世界からの転生者なんだ。
「ジークちゃん、家庭教師がまた褒めていたわ。流石私の自慢の息子ね!」
十人くらいは座れそうな立派なテーブルを囲んでいる一人、オーティア男爵夫人であり、僕の今世の母親であるリベラが頬を綻ばせながらそう伝えてくる。
「ジーク、礼儀作法のタイラーからは小言を貰ったぞ?相変わらずそっち方面は苦手らしいな」
金髪美女である母の肩を抱きながら得意満面な笑みを浮かべてそう伝えてきたのはオーティア男爵。
歳は三十手前、顔は整っており、前世だとモデルでも通用しそうなほどの色男。
「…じーっ」
「何だ?ジーク?」
今世での名はジークリンド・アイル・オーティア。
ジークの愛称で僕を呼ぶのはこの二人だけだ。
「…父様は僕が怒られているのに何で嬉しそうなのですか?」
「そりゃそうだろう?お前は何をやらしても非の打ち所がない自慢の息子だが、こっちとしては面白くないからな!
こうして失敗してくれると、つい、な?
はっはっはっ!」
「貴方っ!まだ四つ息子を揶揄わないで!」
僕が反応する前にリベラがその怒りを露にする。
これもいつもの光景。
「母様、良いのです。父様のことは置いといて食事をいただきましょう」
「そうね!さっ。ジークちゃん。こちらへ来なさい」
「…一応……当主なのだが?」
一応程度なら、問題もないだろう。
リベラの手招きに応じ、その隣の席へと着席する。
今世では何不自由ない暮らしをさせてもらっている。
貴族の子なので野山を駆け回ることは許されていないし、まだ四歳なのに勉強の時間は多いけど、この世界のことを知りたい身としては逆に有難いくらいで不満は一つもない。
…礼儀作法やダンスの授業は苦手だけれども、特段嫌いという訳でもない。小言を言われるのは、前世の記憶から羞恥心が未だに残っているからだと思う。
それでも、何か一つ挙げるのであれば、この時間が苦痛ではあるかも……
「はい。あーん」
「あ…あーん」もぐもぐ
食卓…というにはあまりにも広い部屋だけど。
そこに静寂が訪れる。
「はい。あーん」
「あ…あーん」ぱくぱく
とても恥ずかしく、折角専属料理人が丹精込めて作ってくれた料理なのに、味がしない……
そして、リベラを挟んで反対側の席から笑い声が時々漏れるのだ。
それがイラッと……
「はい、あー『母様…』なあに?」
僕は意を決してリベラのあーんを遮った。
「や、やはり…食事は自分で…」
そう言葉を発するや否や、隣から啜り泣く声が……
「ジーク。約束しただろう?男なら約束を違えるな」
「父様……わかりました……
ごめんなさい、母様。あ、あーん」
「まあっ!ジークちゃんは手の掛かる子ねっ!はい、あーんっ!」
出来の良い子供。それ即ち手の掛からない子供。
最初は喜ばれた。
父であるカーバインもリベラも使用人のサーニャ含む家人達も。
それはそうだろう。
赤子でも意思疎通が図れ、夜泣きもほぼなかったのだから。
子育てにおいて一番初めに躓くのがこの辺り。
その躓きがないことは保護者にとって大変有難いものなのだろうが、こと母親だけは違う。
一生の内、ここまで子供と濃密な時間を過ごし、世話が出来る時間もまあないだろうからね。
それが僕にはなかった。
故にリベラは悲観に暮れた。
それも一年以上。
子供にそんな顔を見せるはずもないから僕は知らなかった話だけど、一年前くらいにカーバインから聞かされた話だ。
その話の後にある約束を交わした。
『食事の時だけは甘えること』
そう。それが今の現状を齎しているんだ。
…もう四歳なのだけれど……一体いつまで続くんだろうか……
人知れずため息を吐いた四歳の夏だった。
この世界の名は『エトランゼ』。そしてエトランゼにいくつかある大陸の一つ『中央大陸』の中にあるごく普通の大きさの国が僕の住む『アルバート王国』。
言語は大陸ごとに統一されているようで、ここ中央大陸には僕と同じ人族が住んでいることから『人語』または『共通語』と呼ばれる言葉が使われている。
らしい……
「やはり、ここでしたか」
ギクッ…この声は……
「や、やあ…タイラー。こんにちは…」
「私の授業は退屈ですかな?」
「そ、そんなことはないですよ?」
書庫で集中しすぎたせいか、人の気配に気付けなかったな……
いや、元々『この気配はっ!?』みたいに気付けることもないけど。
そんな特殊能力を持ち合わせていたならカッコよかったんだけどなぁ。残念。
「はあ…ジークリンド様。いくら逃げていてもいつかは通る道ですぞ?それならば早く通るに越したことはないというもの」
「はは…そうですね……」
貴族といっても下級貴族であるこの男爵家は、一般家庭よりも裕福と言える程度のもの。
使用人も家相であるこちらのタイラー・デズモントを含めて三人のみ。
治る領地も小さな丘の上に建つ二階建てのこの家から見下ろせる範囲で、領民も千五百人ほどだとか。
家の敷地外へ出る許可がまだ降りていないので、全ては人から齎された情報でしかない。
ウチみたいな貴族家は山のようにあるとか。
これはこの書物から得た知識。
「本は逃げません。行きますぞ」
「…わかりました」
こうして僕の有意義な時間は奪われ、役に立つのか立たないのかわからない貴族としての礼節の授業へ連れ戻されるのであった。
一体、何種類の礼儀作法と何種類のダンスがあるんだろう……
知りたくもない疑問ばかりが思考を支配した。
「へー。色んな使い方があるんだな」
今日も今日とて、先日から入室を許可された書庫へ籠っている。
恐らく活版印刷のような印刷技術はあるのだろう。だが、それだけだと本の値段は大して下がらない。
この決して広くはない書庫にある本は100冊未満。
それでもこの屋敷と同等の価値があると聞いた。
そんな場所への入室をたった四歳の息子に許可したカーバインは、やはり貴族らしく器のデカい男なのだろう。
「ずっと違和感だけは感じていたけど、これが『氣なんだね」
今読んでいる本は、僕がずっと探していたもの。
そう。
異世界と言えば『剣と魔法』。
特に魔法には並々ならぬ浪漫を抱いていた。
しかし、この世界に魔法はない。
いや。
正確には、僕がこれを魔法と地球言語へ訳したくないだけなんだけどね。
「『氣は全ての生物に宿り、人も例外ではない。そのオーラは肉体を強化したり、道具を介してエネルギーとして使用することが出来る。
そして使用したオーラは、一般的に体力と同程度の回復時間が必要とされている』」
僕が知っているファンタジーの魔法は万能ではない。
しかし、ここに書いてある氣はそれよりも不便なように感じる。
故に、魔法ではなく氣と訳したんだ。
「『人には得手不得手があるように、自身の持つ氣にも得手不得手があり、出来ることは限られる』か。
なるほど…これは『火魔法は得意だけど水魔法は苦手』みたいなものかな」
先程も言ったが、本は貴重で高価な物。
ここにある本にはこれ以上詳しく氣ついての記載がなかった。
書庫には必要最低限の文献しかないようだ。
まあ分からないでもないかな。オーラは貴族にとって必須の知識じゃなさそうだもんね。
「…ところで。オーラってどうやって使うんだろ」
魔法に関しては、この書庫にあるどの本にも記されていない。
つまり、ないのだろう。
もしくは秘匿されている技術なのか。
どちらにしても一朝一夕とはいかないよね。
よって、僕の興味が氣へと向けられたのは必然とも言える。
これから、『常軌を逸していた』と親に言われる程の執念を僕は見せることとなる。




