瀬戸内精霊流し
生者と死者がすれ違う、盆の海。
それは、灯と花火に導かれる一夜の精霊流し。
群青に、精霊舟は流れゆく。
目を覚ました時、ひどく頭が痛んだ。
なにか夢を見ていたようだったが、なんだったろう。
オレはフェリーの対面ソファ席の肘掛けにもたれるように座っており、
窓から瀬戸内海へ沈む夕日が見えていた。
両手で顔をゴシゴシこすると、汗と滲み出た顔の脂と今日一日の無精髭が掌に残る。
ソファ席から立ち上がり、トイレ前の洗面台のところに向かう。
オレの脇を、浴衣を着た低学年そうな子供がはしゃぎながら走り抜けていく。
洗面台の水を流しながら顔をじゃぶじゃぶと洗う。
やはりフェリーといえど積んでいる真水は真夏の外気に照らされているのだろう、ぬるかった。
備え付けのペーパータオルを何枚も使わせてもらって拭う。
すっきりしたが、顔色は大して良くはない。
あまり飲めない酒を飲みすぎたようで、
いつの間にかフェリーに乗っていたぐらいであまり記憶がない。
船員とかに迷惑をかけていないだろうか…
酔いは醒めている気はする。
先ほどからの頭痛も治ってきているようだ。
先ほどの席に近いソファ席に座り込む。
ふるさとの『島』に行く。ああ、見慣れたフェリーの光景だ。
1時間ほどの短い船旅となる。
客席には、ふだん見ることのない浴衣を着た若い女性や子供たちがちらほら見えた。
今日はお盆の中日で、島で大きな花火が上がる。
この客席にもポスターが貼られていて、『今夜』の二文字が湿気で少し波打って見えた。
オレが子供の頃から打ち上げているから、それなりに歴史は積んでいるはずだ。
かつて四国で一番栄えたと云われる今は地味な港と島を結ぶフェリーで、日に四、五本は往復していると思う。
太陽はもうそろそろ海に沈みかけていたが、いまだ西日が金色に輝き、遠く西に見える連なる島が影になった。
お盆と花火大会のための特別ダイヤで、本来、島への最終便はもっと早い時間のはずだ。
1年ぶりのふるさとの島へ戻るには、いつもこの便でもあった。
島には年老いた両親がいて、帰りを待っている。
若い頃は家に戻った途端、父親と怒鳴り合いになり、ちょうどこの降りたばかりのフェリーで島から四国へ戻る最終便で帰ったこともある。
気の荒い漁師で、…まあ、似た者親子というやつか。
目をつぶってそんなことを考えていると、着信が鳴ったようだ。
太陽は完全に沈んでいたが、夕焼けが空を染めていた。
まだ少し酔いが残っているのかもしれない。
海は、先ほどまでのギラギラは失せ、次第に橙に移り変わり始めていく。
オレはスマホを持って客席から船尾甲板に出る。
暑いので誰もいないと思ってちょうど良いと思ったが、何組か人がいた。
外に出ると潮風の湿り気が肌に張り付き、いかに室内の冷房が効いていたかよくわかった。
低いうなりのエンジン音が波を伝わり、船尾が泡立った。
時折風向きが変わって潮の香りと重油の焚けた匂いが混じった。
群青に変わった西の空に、宵の明星がひとつだけ取り残されたように光っていた。
暗くなりかけるなか、スマホの着信履歴を見る。
妻からだった。
電話をせねばと思うが、今日の朝から些細なことでケンカをしていた。
ため息をつく。
正直、ケンカなど続けるのも面倒なのだが、アイツの状況次第なのだ。
まだ怒ってるなら、今朝のつづきだ。
仲直りの方向に持って行ければいいのだが。
まあ里帰りのフェリーにひとりで乗って置き去りにしたのだ。
とりあえず、どこにいるのか聞きたいだけだろう。
履歴から妻へ電話をかける。
呼び出し音が何度か鳴って、電話は繋がる。
様子を窺う。
夕焼けも次第に群青色に空を染め始めた。暑い空気さえ、少し風向きを変えた。
向こうの最初のひと言は、きっと『今どこにいる?』だ。
「あー、スマン。今、島行きのフェリーだ。フェリーの中よ」
あ、言外に謝ってしまった。
もうこのまま謝ってしまおう。
「ついでに謝るけどよ」
しまった。
ついで などと言ってしまった。
「いや!ついでではないな!はは…」
彼女は、深いため息をついたようだ。
まあ、あんたらしいわ
フェリーに乗ったのはいいけど、土産とか買ったん?
お花も島で買うと高いよ?
「いや、なんもねえわ。身ひとつじゃ」
もう怒ってはいないのが感じられるのでふざけてみる。
ほんまにあんたらしいわ
無事だったのならいいわ。
「無事とは?」
近所の奥さんが言いよったんだけど、街の方で
あんたのクルマによく似たんがな
「うん」
大きなダンプカーと事故んなって
「…」
クルマは下敷き?になったいうて
大事になっとるみたい。
まだ助けられんけえレスキューが救助作業しよるいうて
「そうか」
そうか。
オレは段々記憶が蘇ってくる。
くさくさして家を出てから
クルマを走らせていたことを
酒など一滴も飲んでいないことを…
「…あのな」
なに?
妻が不安そうに言う。
「オレな、オマエに言うとかないけんことがある」
空を見上げる。
天頂には夏の大三角形がくっきり見え始めていた。
妻は何も言わない。
「あのな、オレはオマエをー」
額の汗をぬぐおうとする右手はなぜか左手の甲を叩いた。
無意識の動きだったのだろうか。
オレのスマホは甲板から一度大きく跳ね上がり、
そのまま暗い海上へ吸い込まれた。
あ!と叫んだ。オレは思わず手を伸ばす。
オレはデッキの手すりを握りしめて座り込む。
胸の奥底から嗚咽と何かがこみ上げ、両眼からにじんだ。
その時、空の奥で何かが膨らむ気配。パーン──花火が咲く。
紅い光が水面に滲み、ほどけていく。
花火が始まったのだ。
海上に島の灯りが見えてきた。もうすぐ港に入るだろう。
日は沈みきり、空の茜色もかき消え
空は群青色に支配された。
大きな花火が上がる。
とても大きな暈をひらいて赤い花火に照らされる。
海上もその反射で赤く滲んだ。
書き割りの空には満天の星がぶら下がり、夏の大三角形がブランコのように跳ねて揺れた。
ハリヤードに張り渡されたワイヤーが、青や黄や赤の灯りを瞬かせ、
夜のフェリーを満艦飾の幻のように彩っていた。
煌々と照明を点けて、オレの乗るフェリーはポッポとケムリを吐き、
島に接岸しようとする。
港から小船が何艘か、こちらへ近づいてきた。
青色の集魚灯を付けたおもちゃみたいな小さな船が、ゆらゆらこちらを照らしてる。
今度は青い花火と緑の花火が同時に上がる。
船着き場には、順番待ちをするように整然と立ち並ぶ人々の姿が見えた。
懐かしい顔があった。
じいちゃん、ばあちゃんがいた。
昔日の浴衣や作業着姿や昔の軍服姿の様な、
知らないたくさんの人たちもいた。
こちらへ手を振ったり、じっと佇んでいる。
三年前に死んだ親友の姿も見えた。
…喉の奥がきゅっと詰まる。
こっちだ。
ここにいると手を振っている。
つられてオレも手を伸ばす。
ここだよ!
前方でもやい綱の打つ音が、乾いて響く。
ただいま。
瀬戸内精霊流し




