籾倉 孝昌(遊撃手、21歳、右投左打)
籾倉は二軍のベンチで、ごろ寝していた。
少し前までは、一軍でバリバリに活躍していた遊撃手だったはずだ。ルーキーイヤーでさっそく一軍昇格を果たし、試合にもレギュラーで先発出場していた。彼の所属する天六コーギーズは腐り果てた最下位常連チームとして有名だったが、その中でも彼の守備は輝いた。
守備範囲は他の選手の比ではなく、キャッチングからスローイングへの移行も非常にスピーディであり、腐った守備陣の中でも併殺を稼いだ。二塁を守る柿内伴宣、キャプテンである柿内錦成も籾倉の腕は認めており、頼りになる男だと評価した。
彼は高校野球で鍛えられたメンタルと自分の力への自信にあふれており、希望と決意をもっていたのだ。
(まわりがいくら腐っていようと関係ない。最悪、俺一人の力で勝ってやる。環境のせいになんてするもんか)
大爪や時沢、上森といったメンツが怠惰に練習をさぼり、試合に手を抜き、怠慢プレー寸前の状況であろうとも彼はあきらめなかった。攻撃でも相手投手の分析と対策に熱意を燃やし、長打を放つ。攻守に活躍し、柿内兄弟に次ぐ三本目の柱として誰もがチーム再建の主軸と期待したはずだったのだ。
きっかけは、二年目に入ってすぐの頃。二塁カバーに入ったときにランナーともみ合いとなり、左足首の靭帯を損傷。すぐさま病院に搬送されて手術を受け、長期離脱を余儀なくされた。
籾倉の不在により天六コーギーズは明らかに戦力ダウンし、籾倉もそれを悔しく感じながら療養に専念。リハビリを行い、二軍で調整を経て復帰するかと思われたが、グラウンドに戻るころには自信の源となっていた籾倉自身の力が明らかに衰えていた。
(俺の守備力はこんなもんじゃねえはずだ! 体が前みたいに動かねえじゃねえか!)
医師からは事前に知らされていた。ショートの守備のような複雑な動作は、再現が難しいかもしれないと。
というのも籾倉の怪我は深く、靭帯はほとんど断裂していて、再建のためにメスを入れた。その結果、筋力は衰え感覚が変わり、違和感が残った。何より、籾倉自身が(本当にこの足は俺の全力をかけても大丈夫なのか)という不安を抱えている。
結果的に籾倉は以前とはまるで変ったようなおぼつかないプレーしかできなくなってしまった。
ショートゴロの捕球、そして一塁への送球。たったこれだけのことが、以前のようにできない。「俺一人の力で勝ってやる」という自信は、自分の運動能力が失われたことで打ち砕かれてしまった。
どんなに調整を重ねても、以前の動きはできなかった。試合中、足がもつれて倒れるという無様な姿まで見せることさえあった。ゆっくりと時間をかけて調整すべきであり、長い目で考えるべきではあったが、野球選手が一軍で通用するような期間は限られている。
もはや自分はおいていかれた、もう追いつけないだろう。籾倉はある日を境にぷっつりと練習への意欲を失って、ベンチに転がって日々を過ごすことになった。
天六コーギーズの二軍は一軍のそれよりもさらに狭く老朽化した球場が本拠である。そのダグアウトのベンチに寝転がり、籾倉はかつての栄光の日々を振り返っては現実逃避を繰り返し、二軍リーグもチーム最下位で終わった。
籾倉は戦力外通告を覚悟していたが、怪我をする前の頑張りが評価されているのか契約更改はされた。シーズンオフの間も、自分を見つめなおす機会というものはあったが、以前の情熱は取り戻せない。
やがて春季キャンプが始まったが、天六コーギーズは本拠の球場で代わり映えなく練習をする。経済的事情からであるが、対外的には「チーム成績不振のため」とされている。
そこでも籾倉は大したやる気を出すことができず、軽い運動こそするものの、あとはふて寝に時間を費やした。
他の選手や二軍監督から見れば、ただ彼は二軍のベンチでごろ寝をしているようにしか見えていなかった。
(どうでもいい。最初の年で少しは俺の名前も球界に残っただろ。よくやったんだよもう)
そのまま籾倉という野球選手は終わっていくのかと自分でも思っていたある日、彼の前にふと小柄な新戦力があらわれた。
「今日からお世話になります、六道です!」
ペコリと頭を下げたその選手は、籾倉の目から見ても異質だった。背丈が低い。150cmと少し、おそらく155はないだろう。まるで中学生が練習場所を間違えてやってきたようだった。
誰かベテラン選手の子供が見学に来たのかと思ったくらいだが、二軍監督からも紹介された。この六道という小柄の選手は、間違いなくチームの新戦力であるらしかった。
しかも持っているのはグラブではなくキャッチャーミット。ギアバッグらしいかなり大きめの荷物も持っている。この体格で捕手を務めるのだ。緊張した様子もなくニコニコしていて、野球の練習ができるのが楽しみで仕方ないという感情があふれている。
(まるで俺と正反対だな)
思う通りに動かない足を引きずって、もう何の役にも立たない置物と化している籾倉にとっては、まぶしい新人だった。
(けどまあ、すぐにわかるだろ。このチームは腐り果ててるからな)
籾倉は六道に話しかけることもなく、定位置のベンチに戻って寝転がった。薄目を開けて様子を見てみても、春季キャンプ中であるにもかかわらず、練習はほとんど行われていない。たいていの選手が寝転がっているか、ゲームをしているかだ。サッカーをやっている選手まであるようだが、運動しているだけマシかもしれないという有様。
まじめに練習し、シーズンに備えるべきキャンプでこの状態なのだから、普段の全体練習の惨状もうかがい知れるだろう。
いかに新人が意欲にあふれていても、一人でできる練習など限られている。天六コーギーズの二軍コーチは全体的に高齢で、ノック練習なども無理だ。結局は素振りやティーバッティングくらいしかすることはない。
かつての籾倉も、二軍のこの環境では見下していた選手たちに金を渡してノックをしてもらったり、自費でバッティングマシンをレンタルしたりと苦労したのである。その情熱もいまやなくなってしまったが。
眠りについて、起きる。薄目でスマホを確認してみれば、午後三時過ぎ。
グラウンドを確認してみるも、やはり変化はない。サッカーがキャッチボールに変わっていた程度だった。よくみればボールを投げ合っている片方は、六道というあの小さな新人である。
(そうだよな、そのくらいしかすることがねえよな。どうすんだよお前、こんなチームに来ちまって)
寝返りを打って、籾倉はその光景を見ないようにした。
かつての自分を見たような気さえする。こんな怪我くらい何とでもなると思っていたし、すぐに復帰してまた柿内兄弟と夢を追うんだ、最下位脱出だなんてケチなことを言わずにクライマックスシリーズに出場してやる、とも考えていたはずだった。二軍での調整と言われても、こんな環境では何一つできやしない。
自力でどうにかしようとしても、足に何か埋め込まれているような違和感は決して消えずに、試合でも大した活躍ができない。打撃でさえもサボっているだけの選手たちと大差ない程度しか盛り返せていない、となってくれば諦めもついた。俺一人でなんとかしてやるぜ、というのはただの傲慢に過ぎなかった。所詮は自分も怪我の一つで落ちこぼれるような、凡人だったのだ。
ふと、目の前が少し暗くなったように感じられた。太陽が雲に隠れたのか、すわ、雨でも降るのかと籾倉は目を開けて体を起こそうとする。しかし、彼のいたベンチの前に誰かが立っていて、それで日光がさえぎられたのだとわかった。
立っていたのは、六道だった。
「休憩中ですか? オヤツでも食べませんか?」
彼は汗を拭いて、なにやらビニール袋に入ったものを差し出してくる。丸くてきつね色の焼き菓子のようだった。
「なんだ、そりゃ。なんだよ、練習はいいのか? 春季キャンプ期間なんだぜ」
「でも、みなさん疲れているようですから。無理のしすぎはよくありませんし。ぼくも少し休憩します!」
籾倉は苦笑いをこらえられなかった。選手たちがさぼっているのは、別に連日激しい練習をして疲れているからではない。ただなまけているだけだ。
新人は先輩たちのやっていることを、悪く言えないからこう言っているのだろう。「ふーっ」と籾倉は深く息を吐き出して、それからベンチに座りなおして持参の水筒から水を飲んだ。
「まあ座りなよ、六道。これでも飲みな」
そして自分の隣に六道を座らせて、ダグアウトの端からペットボトルのスポーツドリンクをとって、彼に渡す。キャッチボールを終えて汗をかいていた六道はそれを素直に受け取って、「ありがとうございます」と笑う。
持っていた焼き菓子は、二人の間に置かれた。クッキーのようにみえる。
「おからクッキーです! からだにいいんですよ!」
「おから? こんなのどこで買ってきたんだ。パサパサしててうまくねえな」
籾倉は一口かじって、顔をしかめた。
「これは作りました。安上りなんですよ」
「ああ、まあ、そうか」
てっきり既存のお菓子を買ってきたのかと思っていたが、手作りだったとは。籾倉は「うまくない」などと露骨にけなしたことを後悔したが、納得もしていた。自分の新人の頃はとにかく金がなかった。練習中の軽食が欲しくても、値段を見て躊躇するといったことがなかったとはいえない。
彼なりに、色々と切り詰めてやっているのだろう。
「わりぃ、もらったものを悪く言っちまったな」
「平気です、よく言われますから。甘くないですしね!」
六道もクッキーを口に運んで、パリパリとあっという間に一枚食べ終えてしまった。
その横顔のあどけなさを見て、籾倉はますます彼が過去の自分のように思えてくる。このまま放っておいたら、まわりにいる選手や自分のように腐ってしまうのかと思えた。そうなってほしくはない。
「お前って、今どこにいるんだ。寮か?」
「はい、寮を用意していただきました。とても助かっています」
「きたねえだろ、うちの寮。嫌じゃないか?」
「たしかに、ちょっと古いですね」
困り顔で、六道は笑った。そうだろうな、と籾倉は思う。
籾倉自身も新人の最初のうちは「選手寮があるなら」と入ったのだが、あまりの部屋の汚さに耐えられなくなって、無理をして外にアパートを借りた。汚いだけならまだしも、虫が多くてそれもきつかった。
「実は俺も最初は寮に入っていたんだが」
そんなことを話して聞かせようとした。六道にアドバイスをするつもりだった。こんなチームは早く出たほうがいい、他球団のトライアウトを受けてみたっていいとか。
しかし口が滑って、気が付いたときには自分のことを深く話しすぎていた。
「ほら、ここんとこの靭帯が切れたんだ。病院に搬送されて、今期絶望みたいな言い方されてさ。リハビリもだいぶ長いことやってたが、もう前みたいには動けねえ。俺はもう終わってんだよ」
明らかに話しすぎている。六道に助言をするだけなら、自分のことなど言わなくてもよかった。
籾倉はこのことを、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。だが立場の弱い新人に対して聞かせるなんて、俺はこんなにひどい人間だったろうかとさえ思う。
「すまん、変な話をしちまったな。俺のことはいいんだ。なあ、知っているんだろう。本当はあいつらも俺も、ただ練習をさぼっているだけだってこと。俺は終わってるなんて言ったが、このチーム全部がもう終わってるんだよ。泥船に乗ってちゃいけねえから、とにかく早く逃げることだな」
話をとにかく終わらせようとして、少し早口に言い切った。
「つらかったんですね」
六道からかえってきたのは、深い同情の一言。「まぁな」とだけ籾倉は答えたが、正確には違う。つらかったのではなく、今でもつらいのだ。
それで話は終わったと思ったのだが、六道はさらに話を続けてきた。
「でも、今からならなんだってできますよ!」
六道は両手を握って、籾倉に顔を近づけてくる。子供のような顔に、籾倉は思わずたじろいで後ろに下がった。
「おいおい。気軽に言ってくれるなよ、俺だって色々やったんだ」
「でも、お昼寝だけじゃ勝てませんから」
そう言ってキャッチャーミットを置いて、ギアバッグから白い球を取りだした。硬球ではない。プラスチックの、縫い目が彫られたボールだった。
「軟球か? なんだそりゃ?」
「これはですね、プワボールです。変化球が出やすいボールなんですけど、これでキャッチボールしませんか?」
「これでか? なんでだよ」
「遊びです!」
ダグアウトの中には二軍監督も、コーチもいる。だが、六道は物怖じもしなかった。
「遊びか、そうだな」
籾倉は体を動かすことが久しぶりな気がした。軽い準備運動とストレッチくらいはしていたが、キャッチボールも久々だ。だが野球ではなく球遊びくらいなら、緊張感もない。自分ののろまな動きを晒さずにすむ。
グラブをつけて、グラウンドに出た。プワボールは見た目だけは軟球に似た感じだが、ずっと軽く、やわらかい。
「おもちゃみたいだな」
「遊びですからね! でも、捕るの難しいんですよ」
「へえ、ならやってみるか」
捕手である六道が言うくらいだから、よほど曲がりやすいのだろう。少し離れた位置にいる六道に対して、なんとなくカーブを投げてみる。本業はショートだが、籾倉もリトルリーグでは投手をやっていたことがあった。
すると驚くほどカーブが派手に曲がり、六道は「うわっ」と笑って受け損ね、地面を転がるボールを追いかけていく。
「すげえ。こんな曲がるのか」
「はい、楽しいですよね。もっと投げて見ますか?」
六道はプワボールを山なりに投げて返した。これを受けて、籾倉はプワボールをまじまじと見てみる。
おもちゃの球であり、もちろん野球には使えない。しかしそんなことは、どうでもよくなってしまうほど、楽しくなってしまう。
「じゃあ、マウンドにいきましょうよ。誰も使ってませんから! 使い放題です!」
六道は笑ってそんなことまで言ってのけ、本当にマウンドまで走っていった。一応そこにはピッチングコーチがいるのだが、まったく遠慮もない。昼寝をしていて叱られないくらいではあるが、野球人の共通認識としてマウンドは神聖なものだ。にもかかわらず、六道はプワボールをもった籾倉をマウンドに押し上げてしまった。
「はい、構えますね! 投げてください!」
キャッチャーの定位置に六道はついた。ミットを構える姿はさすがにサマになっている。新人でも長い間捕手としてやってきたという貫禄があった。
籾倉としては、リトルリーグ以来のマウンドで、懐かしいと同時に新鮮な気分だった。また、ピッチングコーチの見ている前でこんなことをしていてもいいのかという気持ちはあれども、今はこのボールでどれほど曲がるものかと試してみたい気持ちが勝った。
「よし、じゃあフォークだ」
「いいですよ」
六道はサインまで出してくる。遊びなのに律儀な奴だな、と籾倉は笑って投げた。ストンとおちたフォークは、六道のミットをすり抜けていった。
「難しいですね! でも、いきなりこんなに落ちるなんて、籾倉さんすごいです!」
捕逸したにもかかわらず、六道は笑ってボールを返してくる。
「へへ、そうかよ。これでも小学生のときはピッチャーで鳴らしてたんだ。こうなったら色々試してみようぜ」
知っている限りの変化球を籾倉は試してみた。スライダー、スプリット、ツーシームといったかつて憧れた変化球はプワボールの特性によって大げさにされ、投げ損ねても意図しない変化を生み出す。
「スライダーがそんなに曲がってたら打てねえだろ、バッターどうすんだよこれ」
ハハハ、とあまりの変化に籾倉はマウンド上で笑い転げた。
六道はニコニコとして、「そうですよね、でも球が軽いから当たったらホームランかもしれませんよ」と返す。
「かもな、そうだな」
気が付けば、おもちゃのボールとはいえ随分投げ込んでいる。20球以上は投げた。足首に違和感はまだ付きまとっているが、それでも投げ続けることはできた。
投手としての投球は久々であるうえに、遊びだったことが無力感を忘れさせたのだろうか。
少し考えて、籾倉はプワボールを六道に返した。
「なあ、その。普通のボールでやってみようぜ。キャッチボール」