柿内 錦成(中堅手、32歳、右投右打)
ホーム三連戦の最終日、時沢がグラウンドに姿を見せたのは午前10時50分。かなり早い。
全体練習の時間は11時からのはずだ。久々の猛暑の中、仕方なくやってきてやったという感じの男が練習着をまとってダグアウトでなにやら文句を言っている。
彼より先、一番にやってきたのは、チームキャプテンを務める柿内だった。
整備係がまだ芝やマウンドの手入れをしている中、ダグアウトにやってきて、グラウンドが引き渡されれば真っ先に練習を始める。それが柿内のルーティンであり、ホームゲームの日の日課だった。
コーチ陣もいるにはいるが、まともに練習している人間がすくない天六コーギーズの状況ではその指導には期待できなかった。彼らとて、教える人間がいなければ仕事にならない。最近は遅刻してくることが普通だった。
グラウンドでは、整備係が最終確認しているところだ。まだ練習は始められない。
柿内はベンチの端に座り、タオルで汗を拭いている時沢を見やった。彼がここにいることが信じがたい。何があったのか、わからなかった。
彼は、怠惰だった。練習もサボって寝ていることが多く、監督が来ないと聞けば姿を見せないことさえもしょっちゅうだ。そうなってしまった原因を、柿内はよく知っている。だから今ここに彼が戻ってきたことを不思議に思う。どのような心境の変化があったのか、問いかけたかった。
しかしその勇気が柿内にはない。練習に来たのかと問いかけて、もしも「さっきまで遊んでいたから、ちょうどよく眠れる場所に来ただけだ」などと言われたらこのわずかな希望が潰えてしまう。うだるような暑さ。直射日光が照りつけている。柿内のこめかみからも汗が流れ、頬を伝った。
時沢からも柿内に話しかけてはこなかった。彼は遠くに座っていて、ただ汗をぬぐって、暑さに耐えていた。
「おはようございます!」
ダグアウトの奥から、パタパタと足音がしたと思ったら、大きく元気な声がした。振り返ってみれば、チームの捕手である六道が笑顔で片手をあげている。
「ああ、おはよう」
チームキャプテンとして柿内は答えた。目を合わせると六道は満足したらしく、次に時沢にも声をかける。
「時沢さん、昨日はありがとうございました!」
「あ、ああ。まあな」
何かをごまかすように、時沢はタオルで汗をぬぐい続けた。まるで柿内に顔を見られたくないようだった。
「おかげでお菓子をもらえました! どうぞ!」
六道はその言葉通り、片手に市販のスナック菓子の詰め合わせセットを持っていた。それをそのまま時沢に押し付けようとしている。
何をしているのかと柿内は言いたかったが、こらえた。しばらく様子を見よう、と思う。
「ばか、いらねえよ。また監督にとられる前にロッカーに仕舞って来い」
「わかりました、ありがとうございます!」
お菓子を突き返され、六道は再びダグアウトを出て行った。パタパタと元気に走る音が遠くなる。
「はぁ、なんてこった」
時沢の独り言が聞こえる。彼は誰にも聞こえないように言ったつもりだろうが、しっかり聞こえている。
六道と入れ替わるように、またも誰かがダグアウトにやってきた。
「お、なんだ。まだグラウンドは整備してんのか」
今度は三塁手の大爪だった。30歳のベテランだが、彼もさぼりがちな選手の一人であり、怠惰な雰囲気を作っていた人物である。柿内は彼から直接、「がんばっちゃって意識高いねえ」などと皮肉を言われたことすらある。だが、そんな大爪がグラウンドに時間前に到着していた。
大爪の後ろには投手の枝元もいる。彼は今日の試合にも出場しないはずである。だが、練習にしっかりと顔を出している。
「なんだ、もう少しゆっくりきてもよかったな。それにしてもなんて暑さだ。おい、もっとドリンクを持ってきておいた方がいいぞ」
「俺に言うなよ。それも整備係の仕事だろ、たぶん」
二人は何やらグチりながらも、「どこに保管してあるんだ?」とドリンクを探しに行ってしまった。ドリンクをもっと欲しがるということは、つまり猛暑の中を練習する気でいるということである。
おかしい、と柿内は思う。思い返してみれば、つい三日前、月曜日の朝の練習にはこんなに熱心なチームメイトは一人だけだった。たった二人だけで練習していた。
それが今やこのようなことになっている。月曜日、つまり六道がやってきた日だ。
「なんて暑さだ……」
そんな言葉を発しながら、さらに誰かがノロノロとやってきた。頭をぶつけないように猫背気味になりながら、ダグアウトに入ってくる。一塁手の上森だった。
彼もまた、月曜日の全体練習を寝て過ごしていたはずの選手である。たったの三日で何があったというのか。
原因は六道がやってきたことくらいしか考えられない。二軍から昇格した、小さな捕手が一人。それだけで四人もの選手が練習に顔を出すようになった。試合で結果を出した者もある。
柿内は整備係が最終チェックを終えるのを待ちながら、じっと考えていた。
12年前に天六コーギーズにドラフトで入団して以来、柿内はこのチームにとどまり続け、そしてなんとかチーム成績を向上させようと努力した。だが、全くといっていいほど結果が出なかった。
時沢のように、入団してきた新人が「俺たちでチームを変えましょう!」と言ってくれたこともある。しかし現実という大きな壁の前にその決意はあえなく砕け、皆やる気を失って腐っていってしまった。
さぼり続けるチームメンバーに対し、叱咤したこともあれば、気持ちをわかろうとしたこともある。懇願したこともあれば、怒鳴りつけたこともある。だが、それでも何も変わらなかった。何かを変えようと努力すればするほど、冷笑された。だからせめて、自分のやる気と数少ない仲間だけは守ろうと、方向を変えた。それを余儀なくされた。
彼らにはかかわらず、自分たちの練習だけはきちんとやろう。そういった方向に転換したのだ。チームの断絶を意味するものだったが、それ以外には選択肢がなかった。
その結果が、腐り果てた練習態度と最下位常連である。柿内はチームを見捨てて、自分とわずかな仲間だけを守った。
だというのに、いまやこの猛暑の中を練習に来たメンバーが、こんなにもあるではないか。
「戻りました、みなさんおはようございます!」
ロッカーにお菓子をしまってきたのか、ミットだけをもった六道がダグアウトに戻ってきた。再度の挨拶だが、元気な声であった。
その後ろから、ドリンクの入った箱をもった大爪と枝元が入ってくる。
「おう、来たのか。昨日は初ヒットだったな、今日も一本くらい頼むぜ」
大爪が六道にそんな声をかける。六道は「昨日、時沢さんにフォームを教えてもらったんです!打ちますよ!」と意気込んでいる様子で、その言葉に大爪が目を見開いている。
「マジかよ、時沢が? 雪でも降るんじゃねえか。いやこの暑さじゃさすがに無理か」
柿内は大爪の変化を目の当たりにしていた。確実に最初に変化をきたしたのは、彼だった。
月曜日の練習中、バッティングマシンが不調になって修理しようとしていたときだ。彼がやってきて、「おい、どこが壊れてるんだ? 用具係はどこいってんだよ」と声をかけてきたのだった。
用具係は見当たらず、大爪と柿内は一緒になって修理をした。はずれていたベルトをつけなおし、なんとか動くように修理したあと、こうも言ってのけた。
「これでいいだろ。ところで柿内、あのちっこいやつについて、なんか知ってるのか? 明日から正捕手とか言ってやがったぜ」
彼は六道とキャッチボールをしたらしい。そこで六道に負けていられない、実力を見せてやるんだという思いにとらわれたようだった。理由はどうあれ、練習メンバーが増えることは嬉しいことなので、柿内はその日大爪を加えて練習した。当然ながら、六道も参加した。捕手がいてくれることで、守備練習もしやすくなった。
そんなことがあった次の日、今度は投手の枝元が練習し始めた。大爪にフェンス直撃の当たりを打たれ、負けん気を出したそうだ。六道を相手にサインを出させながら納得いくまで投げ込んでいた。その疲労が響いたのか、試合で3ランを打たれてしまったが、やる気を出したのはいいことだ。
そして上森、さらには時沢。いずれも、柿内がすでに見限って、切り捨てていた選手たちだった。
それがなぜ今のようになっているのか、柿内にはわからなかった。
六道が彼らに何かしたのだろう、というのは実感としてわかる。しかし、六道と話をしてみても彼は「野球が好きなんです!」という以外の信念をほとんど持っておらず、今どきの若者らしい話題を何一つ持っていなかった。
監督から六道を紹介されたとき、その場にいた選手らで軽く質問をした。たとえば「その背丈で捕手は大丈夫なのか?」あるいは「本当に男なのか?」といったような失礼極まる質問もぶつけられた。だが、六道は笑って「よく言われますけど、男です!」「大丈夫です、野球が好きなんです」と前向きにこたえた。希望にあふれた若者らしい答えだった。
これを聞いていた柿内としては、(こんなにいい子がうちなんかに来たのか。かわいそうに、何日で絶望するだろう)と思っていたくらいである。だが、質問するうちに徐々におかしな答えが目立ち始めた。「寮で何をしてるんだ?」という質問に対しては「料理したり、本を読んだりしてます!」と言い、「野球漫画とか好きか? 何を読んでた?」と言われて「漫画は読んだことないです! 読むのが難しいので!」と答えて質問した選手を絶句させた。
ここで判明したことで、特筆すべきはスマートフォンどころか携帯電話自体を全く持ったことがなかったということだ。さすがにプロ一軍に昇格する際に「絶対に必要だから」ということで監督から買い与えられたらしいが、本人からしてみれば「時々充電する必要がある板」以上のものでは全くないようだった。SNSも、ソーシャルゲームも、興味がなかった。
どこの時代から迷い込んできたんだ? と本気で柿内も声が出かかった。しかしそのような質問は失礼だとギリギリのところで踏みとどまり、せっかくだからということでチームの連絡に必要なメッセージアプリをインストールさせ、自分の連絡先を登録させておいた。それでも彼としては、「誰かから連絡が来るかもしれない板」という扱いになっているようだが。
いずれにしても、柿内は六道という人間をいまだつかみ切れてはいなかった。何者なのか、どういう環境で育てばこういう人間になるのか、全く分からない。だが人当たりはよく、悪意を振りまくこともない。そして野球を深く愛している。愛しているのだが、野球以外の部分の六道が全く分からなかった。
もしかすると、六道には野球しかないのかもしれなかった。彼は野球の妖精で、それしかなく、ただひたすらに野球が好きなだけの不思議な生物なのかもしれない。それがひたむきさとなり、サボっていた選手たちの心を打ったのかもしれない。そうであるなら、自分がどう声をかけてもダメだった選手たちを、六道が立ち直らせられたことにも納得がいく。
しかし、妖精が果たして市販のお菓子セットで喜んでいるものだろうか。柿内は自分の愚かな考えを頭から追い払った。小さな捕手は、ミットを片手に、グラウンドの整備が終わるのをじっと待っている。直射日光が地面を焼いて、熱気がダグアウトの奥まで伝わってきているが、練習を嫌がる様子もない。
やがて、グラウンドから整備係が引き揚げ、彼らはペコリと柿内に向かって頭を下げた。時間が押してしまったことに対するお詫びの意味がこめられているのだろう。
「よし、やるか。おい上森、お前もちょっと守備練習に付き合えよ。こないだみたいなエラーもう許されねえからな」
さっそく、大爪が上森を引き連れてグラウンドに出て行った。
「いや、俺は打撃練習を」
「うるせぇ! まずエラーをなくしてからだ!」
上森は逃げようとしたが、結局大爪に引っ張られて行ってしまった。
「ピッチングコーチはまだ来てないのか。じゃあ、軽く準備運動でもしてるか」
枝元も肩を回しながら、ブルペンへ歩いていく。
「行きましょう時沢さん! 教えてくれる約束ですよね!」
「ちっ、しょうがねえな」
六道に急かされて、時沢までが直射日光の降り注ぐグラウンドに出ていこうとしている。
思わず、柿内は六道を呼び止めた。
「少し待ってくれ。六道、ちょっといいか?」
「なんですか?」
ニコニコしたまま、六道は柿内の顔を見上げる。
時沢はといえば、「先に行ってるぞ」と帽子をかぶり、だるそうにグラウンドを歩いて行ってしまった。ダグアウトに残ったのは、柿内と六道の二人だけだった。
「六道、お前が来てから練習に参加するメンバーが増えてきた。お前が何かしてくれたのか? そういう自覚がなくても、何か気が付いたこととかはなかったか?」
柿内は顎から滴り落ちる汗をぬぐうこともなく、笑顔の六道に問いかけた。野球しか知らない目の前の捕手は、少し考えたあと、軽く首を振ってこたえる。
「何もしてないと思います。練習場にいた先輩方に、キャッチボールしませんかって誘っただけですよ!」
「キャッチボール? ほんとうに?」
たしかに思い返してみれば、六道は色々な相手にボールをもって話しかけていたようだった。大爪ともキャッチボールをしていたような気がしないでもない。
しかし、あの連中にどうやってキャッチボールをさせたのかは気になる。
悩む柿内に対し、さらに六道はこうも答えた。
「ほんとうですよ! 優しい先輩方ばかりで、学ぶところばかりでした!」
「優しい? あいつらが?」
柿内は混乱した。自分が話しかけたときは、絶対に優しい対応などなかったはずである。
「はい! じゃあ練習してきますね!」
六道は時沢の後を追って、灼熱のグラウンドへ行ってしまった。残された柿内は、ベンチに崩れ落ちるようにして座り込んだ。
なぜ、これほどのことが起こったのだろうか。自分と六道との違いは、ひたむきさだけなのか。それとも後輩だからなのか。
そこまで考えて、柿内は大爪たちが運んできた箱を開けてスポーツドリンクを取り出し、ぐいと一口飲んだ。
なんでも構わないか、という結論に達したからである。いずれにせよ、自分は練習へのモチベーションを保ち続け、今まで現役でやってこられた。そして、今は怠惰におちた選手たちが復帰しつつある。それで十分ではないのか。
もしかすると、自分の頑張りを見ていた野球の神が、六道という妖精をチームによこしてくれたのかもしれない。自分に都合よく、そのように考えていてもいいかもしれない。
「遅くなりました、キャプテン」
そのときそういってダグアウトにやってきたのは、柿内の弟。彼こそが、柿内がただ守ってきた少ないチームメイトだった。
「ああ。じゃあ練習するか。あそこで守備練習をしてるみたいだし、ノックを兼ねて打撃練習ができそうだ」
柿内兄弟は、二人で強い日差しの中を踏み出した。
少し前までとは比べ物にならないほど、明るく見えるグラウンドに向かって。