時沢 光輝(右翼手、27歳、右投右打)
試合後のミーティングでは、監督はご機嫌だった。当然のように負けて、連敗が伸びたにもかかわらず。
とにかくひさしぶりに野球らしい野球ができた、とご満悦だった。
(いやいや、負けは負けだろ。別に何か変わったことがあったわけでもないだろ)
そう思いながらも、口を出すことはできずに腕組みをしたまま聞いている。
致命的な失策や捕逸がなかった。失点こそあったものの、モチベーションは維持していた。後半に集中力が切れがちな一塁手の上森が最後まで気持ちを切らさなかった。
そんなことをツラツラと言って、最後に「今日は実りある敗戦だった」と告げ、そして「明日こそ連敗を脱出しよう」と言ってミーティングを終了とした。
右翼手の時沢は、監督の言葉を聞いてもやはり「でも、負けは負けだろ」という気持ちを変えられなかった。
確かに上森はいつも7回あたりから集中力が途切れている気がする。昨日は失策まであった。それがどうしたことか、今日の試合では集中力を保ち、8回にあったピンチを併殺で乗り切った。そのときも少し難しい送球だったようだが、長身を生かし足を延ばして捕球。これを見ていた監督はあえて上森を褒めたのだろう。
いつもサボっているのが目立つように、たまにヤル気をだしても目立つ。上森は上背があるので、そういうものなのだ。
「おい、なんで上森は褒められたってのにグッタリしてんだ?」
誰かがからかうような声を上げている。ふと見てみれば、確かにたった今監督直々に褒められたはずの上森は長机に両肘をついて下を向き、元気がなさそうだった。
疑問の声を上げたのは三塁手の大爪だろう。本当に不思議そうにしている。
それに答えたのは、投手の枝元だった。今日は出場予定がなかったが、最後まで球場にいたのだ。
「あいつ、六道に『ヒットの打ち方を見せてやる』なんて言ってたんだと。それで昨日に続いて4タコだったからな」
「マジかよ。それじゃもう威厳も何もありゃしねえな。先輩風吹かせようとして失敗したんか」
「だろ、しかも六道はプロ初ヒット。逆にもう六道に教えてもらったほうがいいかもな」
二人は無茶苦茶を言っている。だが、上森の状況は確かに笑える。かわいそうだが、笑えた。
とはいえ、時沢も今日の試合での時沢は犠牲フライを打っただけで、あとは凡退だった。あまり人のことは言えない。
「その六道はどこ行ったんだ?」
「なんかお菓子を返してもらってないとかで監督についていった。俺たちも帰ろうぜ」
試合が早めに終わったこともあり、まだ22時半だった。選手たちは早く帰って疲れを取りたいのだろう。三々五々、部屋を出ていく。時沢もその中に紛れて、クラブハウスを出た。
明日も試合があるし、今日と同じ時間にグラウンドに来なければならない。だが、時沢は昼の練習をギリギリまで遅刻していくつもりだった。もはや昼の練習時間を昼寝の時間としているのは、天六コーギーズの大半の選手がそうであるし、それで通用している現在、参加する意味がない。そうすることで、夜遊びができる。
時沢はこの方法を発見して以来、ちょくちょく意図的に遅刻して遊ぶようになっていた。監督が何時にグラウンドに来る、などという予定がわかっているのならば、その直前までは絶対にグラウンドには行かないくらいである。
「さて」
スマホをとりだし、最近ひっかけた女にメッセージを送った。性格はあまりよくなさそうだったが、見た目が時沢の好みだった。特に胸の大きさがよい。
その女と酒でも飲んで、夜を楽しみ、明日の試合に備える。完璧だ。
ただの娯楽に、勝手に試合の準備という名目を付け加えて心の中で罪悪感をすり減らし、時沢は夜の街へと繰り出していった。
だが結論から言えば、この遊びは失敗に終わった。
「あの女、奢らせる奢らせてブロックしやがった!」
名前も覚えてないような女だったが、時沢は裏切られた悔しさに肩を怒らせ、罵りの言葉を吐きながら家までの道のりを歩いている。その女と出会ったとき、キープしておこうと思った時沢は金払いの良さをアピールしておこうとその時の店の代金をすべて支払った。しかし、そのまま逃げられてしまったというわけである。連絡先は交換していたものの、ブロックされてしまえばどうにもならない。
「くそ、なんだってんだ。俺が何かしたか?」
練習をさぼろうとしていることなど、忘れたように時沢はそんな言葉を繰り返した。そこに、ふと声をかける者があった。
「時沢さん!」
背丈の低い童顔の女が、こちらに手を振っている。ニコニコとして愛想がよさそうだが、見覚えがあるようなないような、名前が思い出せない女だった。
(こんな女ひっかけたか? いや! こいつ、あのチビの捕手か! 六道とかいったっけか)
時沢はしばらくジロジロと六道の顔を眺めながら考え、そしてようやく思い出した。
声をかけてきたのは女ではなく、六道。自分と同じチームの捕手だった。
「こんな時間に何してるんだ? 早く家に帰ったほうがいいぞ」
時沢は自分のことを棚に上げ、相手に注意を始める。しかし六道は意にも介さず、説明を始めた。
「はい、監督と話していたら遅くなってしまいました。オヤツも返してもらえました!」
「オヤツ?」
「試合前に食べていたら没収されたんです。おからクッキーなんですけど、食べますか?」
六道は持っていたカバンからビニールに入ったクッキーを取り出して、時沢に見せつけた。しかしもう中身は残り僅かになっている。わずか二枚。
「いや、残り少ないだろ。お前が食えよ」
「本当はもっとあったんですけど、監督に食べられちゃいました」
(それは返してもらえたとは言わないんじゃないか?)
時沢は内心で突っ込みを入れながら、試合中のことを思い出してみる。そういえば、ダグアウトの奥で監督は時折何やら食べていたような気がした。あれは六道から没収したクッキーだったようだ。
「で、お前はこれから家に帰るのか?」
「いえ、行くところがあるんです! よかったら時沢さんも一緒に行きますか?」
「へえ?」
こんな時間から行くところがあるだと?
時沢は現在時刻を思わず確認する。すでに23時半だ。こんな時間に空いている店などほとんどない。六道はまだ未成年のはずで、飲み屋というわけでもないだろう。何をする気なのかと気になった。
だが、それ以上に時沢の心に湧きあがったのは、「こいつに悪い遊びを教えてやろう」という下劣な欲望だった。
「へへ、いいぜ。行こうじゃないか」
六道が何をするつもりかはしらないが、大人の夜の遊び方はまだ知らないだろう。たっぷりお金を使わせて、気持ちの良いことを教えて堕落させてやろう。時沢はそんなことを考えている。
なぜという理由もない。ただ、自分が苛立っていて、目の前にちょうど若くて善人で、何も知らなさそうなのがいたからだ。ここで汚してしまえば、明日の練習からさっそく遅刻してくるかもしれない。そうなればこのチームの、腐ったみかんの仲間入りだ。
自分の計画がうまくいったときのことを想像してヘラヘラと笑いながら、時沢は六道について歩いて行った。
この時沢も、天六コーギーズに入った瞬間から堕落していたわけではない。新人の頃はこのどうしようもないチームをなんとか勝たせようと努力したこともある。だが、どのように努力をしてもチーム成績はほとんど何も変わらなかった。当時のチームキャプテンとわずかな人数だけで練習に取り組み、知恵を絞ってアウトをとるために守備シフトを工夫し、打撃練習に取り組んだ。なのに、チームの勝率はわずかも上がらず、チームメイトからは「がんばっちゃってアホかよ」という冷たい言葉をかけられ、孤立を余儀なくされてしまった。
折れる方が楽だった。風の中で旗が折れるように、折れて飛んで地面に落ちて汚れる方が自然で、楽だった。時沢は汚れ果てた今の自分とチームが、いいとは思っていない。だが、楽だった。
(お前も色々がんばってるみたいだが、じきにわかる。何をやっても無駄だってな。そんなら俺の手で早々と堕落させてやらあ)
時沢はそんなことを考え、「へっ」と自嘲気味に笑ってみた。我ながらなんとも情けない考え方だった。
六道が振り返って、言った。
「つきましたよ。ここです!」
顔を上げてみれば、六道に案内されてきたのは錆びの目立つ、バッティングセンターだった。
「おい。ここはもう、営業していないんじゃないか? つぶれてるだろ、この感じは!」
「えっ? 大丈夫です! やってますよ。きてください!」
時沢の言葉を気にもせず、六道は慣れた調子で中に入って、受付に向かっていった。外から見てもひどかったが、内側の老朽化もすさまじい。建物も相当ガタがきているようで、六道が走るだけで床からギシギシと音がするような始末だった。時沢はこんなものが今の時代にあるとは信じがたかった。
「なんだこりゃ。こんなとこあったのかよ」
「へへ、穴場なんです。遅くまでやってるから、ここでいつも練習しているんですよ!」
「そ、そりゃあ熱心だな」
「練習場のマシンは動かなかったり、争奪戦だったりしますからね! 隠れた努力です!」
堂々とそう言いながら、六道はニコニコしている。
「行くところがある」というのでどこだろうとは思っていたが、それにしても真面目だった。時沢は目を丸くして、あらためてこの底抜けの善人を見て、そして思った。
(なんでこんなやつが、うちみたいな腐ったところに来ちまったんだ)
自分が何もしなくても、早晩絶望して腐っていくに違いない。たぶん、俺みたいに。
そのように時沢は感じて、忸怩たる思いにとらわれる。その手で六道を堕落させようとしていたことは、もう頭から抜けていた。
六道は140km/hと書かれたバッターボックスに入った。何の変哲もない、昔ながらのピッチングマシーンから、合図とともにボールが飛び出してくる。
そのボールにタイミングを合わせてスイングしたが、見事に空振り。ボールは六道のバットをすり抜け、後方の網の中に入った。
しばらく後、二球目がマシンから吐き出されてくる。これも六道は空振り。三球目も全くタイミングが合わず、空振りした。
「おい、どうなってんだ?」
見ていた時沢は思わずそんな言葉を口にした。昨日の試合で一度もボールに当てられなかったことと、目の前の惨状から考えると、間違いなく六道は打撃が不得手だった。それも尋常ではないレベルでだ。
さすがに四球目から七球目にかけてはタイミングを読んだのかバットに当てていたが、それでもパワーが足りなくて綺麗に飛んでいかない。今日のヒットもポテンヒットに近かった。六道には見た目の体格通り、体重も筋力もないので力で打球を飛ばすのは無理のようだ。だが、本人はそれを指導されたことがあるのかないのか、両手で懸命に振っている。
やがてバッターボックスから出てきた六道は、
「今日は調子がいいですね! 半分も当たりました!」
などと言って時沢を脱力させた。
(140km/hのストレートに半分も当たらないプロ野球選手がいるか!)
と言ってやりたい気持ちを抑え、時沢は近くにあったベンチに腰掛け、額に手を添えて頭痛をこらえながら笑って言った。
「へっ、まるでなっちゃいねえよ」
「本当ですか! どこが悪いのか教えてもらえますか!」
六道は時沢に食いついた。まるで断られることを考えていないような、率直な言い方だった。
思ってもいない反応だったので、時沢は毒を吐こうとも考えられない。深く息を吐いて、六道に目を向けた。
「見てらんねえよ。教えてやるからコーラ買ってこい」
「わかりました!」
まるで飼い主に遊んでもらえることがわかった子犬のように六道は元気に返事をして、自動販売機へと走っていく。そして首から下げていたSUICAでコーラを買って戻ってきた。完全に、投げられたボールをくわえて戻ってきた子犬だった。
これで教えてくれるんですよね、と期待してコーラを差し出してくるのをみて、時沢は何とも言えない気持ちになって呻いた。
こいつはこの腐れたチームにいていい人間じゃねえよ、と思いながら缶を開けた。
「こうですか? いつもこうして振ってるんです!」
六道はそう言いながら、飛んでくるボールにタイミングを合わせてスイングしてみせた。両手での振りはできていて、左手で引く力が意識されている。だが、その振り方ではプロで通じない。時沢はグッとコーラを飲んでから、アドバイスを始める。
「打つときに腰の回転が伝わってねえんだ。上半身だけで打ってるうちは、プロの球はヒットにならねえ」
言いながら、自分も全く同じことをかつて言われたことを思い出す。はからずも、同じことを受け売りする形になってしまった。
(ちっ、まあいいや。こうやったら受け売りで全部やってやる。間違っちゃいねえだろ)
しかし、六道は時沢が思っているよりもずっと素直で、教えられたことは忘れなかった。「でも今日初ヒット打ちましたよ」などとは決して言わず、ただ時沢のアドバイスを素直に受け入れて、フォームを直していった。
「こうですか!」
「腰の回転が意識しすぎてぶれてるんだ。軸足をもっと意識しろ。腰の回転といっても、腰だけ動かしゃいいわけじゃねえ」
「こうですか!」
「おう、ちょっとできてきたな。もう少し腰を落とせ」
「こうですか!」
「バットをもう少し体に近づけろ」
「こうですか!」
「よし、ちょっとやってみろ」
そんな具合で、20分ほど二人は打席で過ごした。時折、バットの快音が聞こえる。
六道のバッティングフォームは矯正されていき、彼の体格に合わせたものに調整までされていく。それがまるで、時沢にとっては数年前の自分のことのように見えた。
あのとき、自分に教えていたチームキャプテンにも、自分がこのように見えていたのかもしれない。そんなことを時沢は思った。缶の中のコーラは残り少なかった。
「こうですか!」
振りぬいた六道のバットは、綺麗に140km/hのストレートをとらえた。綺麗に打ち返された打球はバッティングセンターの中に備え付けられたターゲットの一つ、「二塁打」と書かれたものに直撃し、そのまま遠くの網の中へ消えていった。
フォームも完全に矯正されている。腰の回転という問題も改善された。もっとも、六道の体重と筋力の問題で、本当に強力な投手の球を打ち返すのは難しいだろうが。
「悪くねえな。その調子だ」
コーラを飲み干し、ゴミ箱に捨てると時沢はいい頃合いと判断した。ジュース一本分の指導はもうしただろうと考える。
立ち上がって、自分の荷物をまとめた。
しかし六道はそれをみて、時沢にバットを差し出してきたのであった。
「時沢さん、最後にお手本を見せてくれませんか!」
時沢は焦った。逃げたかった。
特に打撃が不得手というわけでもなかったが、昨日もノーヒットで、今日は犠牲フライだけ。当たる自信がなかった。
だが、六道を見ればニコニコの笑顔で、断られるとは微塵も考えていそうにない。内心嫌々ながら、そう見えないように気を使いつつもバットを受け取る。
(空振りじゃいくらなんでもカッコつかねえよな。調子が悪い、とか言っても済まねえだろうな)
ふと頭に浮かんだのは、数時間前のミーティング、一塁手の上森が長机に突っ伏していた姿。後輩にいいところを見せようとして失敗したというかわいそうだが笑えた話。だが、もし今ここで空振りなどしようものならそれを上回る赤っ恥だ。
時沢はバットを握りしめて、そしてたった今六道に教えたばかりのことを実践しようと集中した。
腰の回転、軸足の意識、左手の引き。
教えられたことをあらためて思い出し、教えたことを確実に思い出して、間違えないようにする。そしてその上で、打たなくてはいけない。しかも、六道が二塁打を叩いたのでそれ以上の結果でなければならない。
色々なことを思い出して、反芻していると六道がさらに追い打ちをかけてきた。
「ホームラン出たらお菓子がもらえるんですよ、欲しいんです!」
まったく無邪気な笑顔でそう言われては、狙わないわけにもいかない。ホームランのターゲットは六道が当てた「二塁打」よりもはるかに遠くにある。パワーが必要だった。
だがまずは、教えたことすらできてない先輩と思われたくはない。そう、腰の回転、軸足、それからそれから。やがてボールがマシンから吐き出された。
時沢は140km/hのストレートを完璧なタイミングでとらえた。フォームも乱れてはいないはず。
痛烈な当たり。打球はグングン伸びて、追い風にも助けられ、「ホームラン」のターゲットにぶつかった。
「ほっ」
緊張から解放され、時沢は汗をぬぐった。そして、それから急いで逃げようとした。これ以上ここにいては、次に何を見せてほしいと言われるか、わかったものではない。
しかし遠慮を知らない六道は、彼の背中にさらなる一撃を見舞ってきた。
「もっと教えてくださいね! グラウンドで待ってますから!」
これでもはや時沢は、全体練習に遅刻していくことも許されなくなった。
「くそ、なんだってこんなことに」
そんなことを言いながらバッティングセンターを出て、家路を急ぐ。だがなぜか、それほど悪い気分でもなかった。