上森 介太郎(一塁手、26歳、左投右打)
上森にとっては、全力でやることは体力の無駄だった。
彼だけではなく、天六コーギーズの選手たちの大半はそう思っているかもしれない。昨夜の試合も大敗した。先発投手である枝元は珍しく大崩れすることもなく投げていたが、7回に疲労から失投して一発を浴び、スリーランとなった。さらに交代した中継ぎが炎上。あとはいつも通りの失策もあり、結局そこから5点をとられて連敗記録がまた伸びた。
上森自身、すでに限界を感じている。彼とて昨日の試合に出場していたが4打席ノーヒット、その上少し気を抜いていたときにとんできた送球を受け損ねた。失策である。
これは近頃の天六コーギーズの例にないほど、三塁ゴロの処理が早かったせいだ。三塁手の大爪はこれまで怠慢プレー寸前の状況だったのに、昨日はやたらにやる気を出していた。素早い送球で二塁フォースアウト、二塁から上森に送球が回ってきたが、これを受けられなかった。上森のせいで併殺が失敗したのだ。
一塁手である上森にしてみれば「守備のときはずっと気を張っているんだから、そりゃあ疲れちまうよ」とも言いたかったが、そんな言い訳が通用するはずもない。仕方なく、「どうでもいいか、そのうち二軍にいくかクビになるだろうしよ」という言葉を口にして、自分を慰める。
今日も試合があるが、上森はグラウンドにやってきていながら、練習もしない。ファーストミットを外して地面に置き、日陰に腰を下ろして休む。
最近はまじめに練習している選手も少し増えたようだが、やはりさぼっている選手のほうが圧倒的に多い。上森はその様子を見て、少し安心し、そしてゴロゴロした。
なにしろ、上森は長身である。身長192cm。一塁手というポジションでは、リーチの長さが武器になる。だが、さぼるときには目立つ。何かあると大きいだけ目立って、集団で何かやらかしても上森だけ名指しで怒られるということがよくあった。
「特に昨日みたいな試合の後じゃなあ」
昨日の併殺失敗は痛い。このチームにおいては、失策などありふれていていちいち怒られるようなことでもなかったが、昨日は違った。六道とかいう小柄の捕手が出場していて、えらく客が多かった。普段は内野席までスカスカなのに、昨日はライトスタンドまでまばらに人がいた。応援歌などはなかったが、キャーキャー言ってるのが聞こえたくらいだ。
六道については「フロントが用意した客寄せパンダだろ」という意見が上森のまわりでは多かったし、上森もそうだろうと思っていた。
(野球経験のあるタレントか何かを用意したのかもな。その割にはあんなチビを使ったのはわかんねえが)
いずれにせよ、フロントや監督も特に注目していた試合だった。そこで目立つ失策をしてしまったのだ。
しかしどうなるものでもない。そのまま寝転がって、うとうとしようとしていたところ、近くに誰かが立った。
「あの、野球しないんですか? キャッチボール、しませんか?」
上森は目を開いて驚いた。近くに立っていたのは、六道だったのだ。
だが彼は「ちっ」と舌打ちをする。タレントがこんなダメ選手に何の用なんだ、と思った。
「やらねえよ」
と、短く拒絶する。手を振って、あっちへ行けと示した。
「そうですか、わかりました!」
六道はといえば特に気を悪くする様子もなく、元気に答えて走って行ってしまった。
「なんだあいつは」
上森はため息をついて、もう一度寝転がった。
すると、こんどはダグアウトからの会話が聞こえてくる。
「枝元、おめぇ来たのかよ。今日は出ねぇんだろ?」
「あんだけ恥をかいて家でゴロゴロしてろってのか。あの一発さえなけりゃあ俺だって」
「いやまあ頑張ったほうだろ。監督も褒めてたじゃねえか、QSは達成したんだしよ」
どうやら三塁手の大爪と、昨日の先発投手だった枝元が話しているようだった。
二人は確かに昨日のゲームではやたらと張り切って、監督に名指しで「よくやった」と言われている。上森としては(何か変な本でも読んだのか。何日もつか見ものだな)というくらいでしかない。
「お前も。偉そうに言って単打一本じゃないか」
「うるせえ、四タコよりマシだろ。二割五分なら上等だ。おーい、六道! お前またそいつらに声かけてんのか。こいつとキャッチボールしてやれ! うるさくてかなわねえ」
でかい声で話しながら二人はグラウンドに出てきて、六道に声をかけている。
「はい!」
話しかけられた六道は飼い主に呼ばれた犬のようにパタパタと走って戻っていった。だが、それでもグラウンドにはごろごろしている選手たちの方が多い。
「六道、おめえもちょっとは打撃で貢献しろ。昨日一回もバットに当たってねえだろ」
「すみません、打撃はちょっとだけ苦手です」
「ちっ、おい枝元。ちょっと投げてやれよ。こいつが打たねえと俺に回ってこねえじゃねえか」
大爪たちは和気藹々と野球の話で盛り上がっているようだった。内容は真剣だが、どこか楽しそうにも聞こえる。
「がんばっちゃって、意識高いね」
ふん、と上森は鼻を鳴らした。
しばらくそのまま寝ていたが、数時間ほどで反対側のダグアウトがにぎやかになりだした。ビジター側のチームが到着したらしい。いつものように、球場の施設の古さに文句を言っているのが聞こえる。
対戦チームの練習、ウォームアップが始まってしまう。上森はあわてて起きて、自分のチームのところへ戻った。
すでに監督が何やら話しているところだった。危ない。
「おう、全員集まったな。昨日に続いて捕手は六道だ。今日こそ連敗脱出を頼むぞ」
先発オーダーは投手以外昨日と同じでいくらしい。上森も先発、先ほど頑張っていた大爪も三塁手として先発だ。
ふう、と上森は息を吐いた。散々さぼっているが、まだ出番はあるようだ。ここへやってきてからだいぶ時間がたったせいか、ムズムズとしてきた。トイレにいくふりをして、球場の裏、人気のないところへ行く。スタッフ用の喫煙スペース。球場の禁煙が進んだ今となっては、上森以外には誰もいない。
そこでポケットからスリムなサイズの紙巻きたばこを一本。隠し持っていたライターで火をつけた。
「ふう……」
上森は深く煙を吸って、ようやく生き返った気がした。少しは落ち着ける。
もうすぐゲームが始まるだろう。あと三時間ほどは吸えない。今のうちに補給しておかなくてはならない。この秘密の時間は、誰にも邪魔されない時間のはずだった。
だがそのとき、喫煙スペースへ続く扉が開く。ギョッとして、上森は固まった。タバコを隠そう、という暇もなかった。
「あっ」
やってきたのは監督ではなかった。六道とかいうチビの捕手だ。ヤバい、と上森は焦った。
こいつはあの態度からして学生野球の気分を今でも引きずっている。タバコなんぞ吸っていると知られては、間違いなく監督へチクられてしまうだろう。
(さすがにそこまでいったら誰も庇ってくれねえだろうな……、俺の野球人生も終わったか)
終わった、と上森は思った。
だが六道はニッコリ笑って、上森へ何かを手渡してきた。ビニールに入った茶色の平たいもの。クッキーだった。
「これ、あげます。おいしいですよ!」
「はぁ?」
あっけにとられる上森の前で、六道は自分のぶんもクッキーを取り出して、口に入れた。パリパリと音がする。
「おからクッキーです! どうですか?」
それに見とれている間に、再び扉が開いた。ギクリとした上森が目をやれば、今度こそ監督だった。
「なんだ二人とも、試合前だってのに。こんなところでオヤツか!」
監督は六道の持っていたおからクッキーの袋に気を取られている。上森は慌ててタバコを握りつぶし、クッキーを食べていたふりをした。
「えへへ、腹ごしらえです! 監督もどうですか?」
六道は全く物怖じせず、監督にまでクッキーを差し出した。毒気を抜かれたのか、監督はそれを素直に受け取って口にする。一枚食べて、目を見開いた。
「ふん、なかなかいけるな。だが試合前なんだ、ほどほどにしとくんだな。これは没収だ」
そう言って監督はおからクッキーの袋を丸ごと取り上げ、出て行った。
「とられちゃいました。残念です」
まるで他人事のように、六道は笑っている。だが、上森にとっては六道のクッキーの行方などどうでもよかった。
「お前、なんで言わなかったんだ。弱みでも握ったつもりかよ」
「弱みって、なんのことですか? 二人とも試合の前にお菓子を食べて、怒られました。それだけです!」
とぼける気かよ、と上森は舌打ちした。だが告げ口されていれば上森は終わっていた。しかも、六道が来なければ完全に吸っているところを監督に見られていたわけである。
六道を信用するわけではないが、疑心暗鬼になって不安を抱えるよりは、取り込んだ方がましかもしれない。上森は計算して、そのように結論した。そうと決まれば行動は早かった。
「そうか。そりゃあ反省しなきゃな。お前、いつもあんなものを持ってきてるのか?」
と、さっそく六道に話しかけていく。こちらが友達ヅラをすれば、告げ口もしづらくなるだろう。
「はい、たまに持ってきています。お腹がすくので!」
(マジかよ。ファームでもそんな調子だったのか。メジャーのほうだとヒマワリの種とか食ってるとか言うが。さすがにクッキーはマズくねえか?)
上森は目の前のニコニコ笑っている小さな捕手をよく観察してみた。どこからどう見ても中学生にしか見えないが、これでプロ一軍の野球選手なのだそうだ。たったさっき、おからクッキーを食って監督に叱られていたが。
なるほど、と上森は息を吐いた。それからタバコのにおいをごまかすためのミントを口に入れ、食べながら六道の認識を改めた。
(ただのいい子ちゃんじゃないんだな……。客寄せパンダのタレントかと思っていたが、違うらしいや)
完全に善人ではないが、悪人でもない。どちらともいえない。
そこで上森はダグアウトに戻るための扉を開きながら、小さな捕手へ声をかけた。
「なあ、昼間は悪かったな」
「なんのことですか?」
「キャッチボール、誘ってくれたのによ。次は一緒にやろうぜ」
そう言ってみると、六道はニッコリ笑って「はい!」と元気よく答えた。
なんだかこいつは悩みがなさそうだな、と思いながらダグアウトに戻ると、もう天六コーギーズもウォームアップをする時間だった。
すでにグラウンドには多くの選手が出ており、キャッチボールや素振りをして調整している。
「上森さん、やりましょう」
六道がボールを放り投げてきた。上森はそれを受け取る。
最近ではこの試合前のウォームアップすらも、軽い準備運動というか肩を回す程度にとどめていた。誰かとキャッチボールをすることさえ、久しぶりな気がする。
「なあ、お前は何も気にしてないのか?」
投げ返しながら、上森は訊ねた。
「何がですか?」
「昨日さ。枝元は失投したし、俺はエラーするしノーヒットだ。その上さっきのあの始末だぜ」
「失投なんかなかったですよ。投手は肩をけずって投げているんです。全力でやった結果です」
おいおい、とツッコミを入れながら上森は返球をミットにおさめた。
(じゃあ俺はノーヒットにエラーが全力で、それが実力だってか?)
思わずそんな皮肉を言いたくなった。しかしそれを否定することも自分でできなかった。今の上森は、その程度の選手でしかないのだ。なぜなら、全力でやることさえも否定してきたのだから。
全力でやることは体力の無駄だと、さぼってきたのは自分だ。
今までは心のどこかで、本気を出せば俺はこんなもんじゃない、という思いがあった。なのに目の前のチビ捕手に、今のおまえの全力はエラーとノーヒットなんだと突きつけられている気がした。
キャッチボール相手の六道はずっと、楽しそうに球を受けている。やがて試合開始の時間がせまってきた。六道にボールを返し、ダグアウトに二人で歩く。
「俺は、俺の全力はこんなもんじゃねえんだよ」
「はい! そうだと思っています!」
なんとなくつぶやいた言葉に、六道がかぶせるように元気のよい返事をしてきた。
そうも言われては、上森は何も返せない。結果が伴っていないからだ。だが、目の前の六道とて、昨日は出塁こそしたものの四打席で一度もバットにカスリもしなかった。こいつとて、人のことを言えた義理ではない。
上森の口をついて出たのは、意外な言葉だった。
「お前とは違うってとこをみせてやる。見とけよ、プロからのヒットの打ち方を教えてやる」
その言葉に自分で驚くほどだったが、上森に残された最後の意地だったのかもしれない。
六道はと言えば、コーチたちに「早く防具をつけろ」「キャッチボールなんかしてる場合か」と怒られながら準備をしているところだったが、こちらを見て「はい!」とニッコリ笑った。
上森は後に引けなくなった。